誰がための小夜曲


番外編
【新婚旅行:2】


 このホテルは南国にあるだけあって、涼しげなウッド調のソファーやテーブル、やしの木などの熱帯植物がとても目立つ。でも全館に冷房が良くきいていて、外が暑くてもホテルの中はとても涼しかった。
 そんなホテルの1階ロビーのソファーで行き交う人たちをボーっと眺める澪。ルームキーを忘れて部屋の中に入れず、まだ寝ているであろう詩亜が起きるのを待っている澪は、もう行く所をなくしてロビーのソファーで足を休めていた。そして小さく溜息を付く。
「やっぱりホテルの人に事情を説明しようかな……」
 そうするのが一番手っ取り早いのに、澪はいまだにそれをしていなかった。なんとなく恥かしくて、億劫で。でもこうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。もうとっくに詩亜を起こそうと思っていた時間から二時間ほどたっていた。
(……あれ?あの人、さっきから私を見てる?)
 澪は座り心地の良いソファーでこれからどうしようと考えていると、ふと近くの同じ形のソファーに座っている男性に見られていることに気がついた。だから澪はなんだろうと思い、その男性のほうに目を向ける。すると、その男性と目が合い、それと同時に微笑んだ男性がこちらに近づいてきた。
 彫りの深い情熱的な顔に長い手足、高い背丈。そんななんとも羨ましい姿を持つ男性は、明らかに日本人ではなく、ラテン系の国の人のように思えた。しかし、今の澪はそんな事考えている場合じゃなかった。知らない人、それも外国人がこちらに向かって歩いてきている。だから澪は頭をパニックしてその場でオロオロとしてしまった。
 そして男性は澪が座るソファーの前までやってきて、なにやら話し出した。
(わ、わからないよ。一体何語?)
 英語も分からないのに、彼が話す言葉は英語とは少し違ったように思えた。だから澪はどうしたらいいかわからずに、とりあえず立ち上がってみる。それに男性は顔を明るくさせた。
「……え?」
 澪がソファーから立ち上がるのと同時に、何故か目の前の男性に慣れなれしく彼女の肩に手をまわしてきた。だから澪は目を見開いて男性を見上げる。
「や、やめて下さい」
 しかし、澪の言葉がその人に伝わるわけもなく、男性は楽しそうな様子で澪に話を続けていた。澪は、連れて行かれる!そう思っていた。
「おい」
 しかし、澪が困ってどうしたらいいかわからなくなっている時、そんな声が澪の耳に届く。だから澪はすぐに声のほうに顔を向けた。
 そこに立っていたのは、眉をひそめた詩亜だった。
「詩亜、君……」
 澪はもう泣きそうで泣きそうで、目の前に現れてくれた詩亜に表情だけで助けを求めた。すると詩亜はすぐさま男性に何かを話し、澪を彼の腕から解放する。そして澪の手を引っ張り、そのままホテルの奥へと歩いていった。

「何やってんだよ!お前、自分が何をされそうになっていたのか分かっているのか!」
 詩亜は澪の手を強く引っ張りながら大声でそう言い放つ。だからすれ違った人たちが澪達を不思議そうな顔で見ていた。でも詩亜はそんなのお構いなしに。
「少しは危機感というのを持てよ!第一、なんで俺を起こしにこない?!あんな所にいたんだよ!」
 詩亜は明らかに怒っている。今までないくらいに。でも澪は何も言い返せなかった。だって自分が悪いんだから。言い返せるわけがない。
「……鍵を。鍵を部屋に忘れちゃって」
「それならフロントに言えばいいだろ!お前、どれだけバカなんだよ!」
 バカ。そういえば前も彼はそんな事を言っていた。そう、私はバカなの。どうしようもないバカ。
 最近はよく、新婚旅行から帰ったら離婚するだとか、結婚したらすぐに不仲になるなんて話をテレビなんかで聞く。それはきっと、今まで一緒にいたけれど、生活の一部として彼や彼女に触れると違った人に見えてしまうからかもしれない。結婚してはじめて、その人の本当の姿が見える、というか。
 だから澪は詩亜に手を引かれながら急に不安になってきた。もしもう詩亜に嫌われていたらどうしよう。お前とはいられないと言われたらどうしよう、と。
 すると、澪の瞳からは自然と涙が出てくる。ポロポロと下へ流れる。
「……ごめんなさい」
 もう澪にはこうするしかなかった。今回の事は100%澪が悪い。自分はそう思っている。だから澪はもう詩亜に謝るしか出来なかった。
 そんな澪の小さな言葉に、詩亜は足を止める。それと同時に澪の足も自然と止まった。
「ごめんなさい、詩亜君。本当にごめんなさい……」
 怒らせてしまった。愛しいこの人を。そんな事少しも望んでないのに。
「ご、ごめんなさいぃ。ごめんなさいぃ」
 澪はホテルの静かな廊下で大きな声で泣き出した。涙はどんどん流れていく。
「私を嫌わないで。私を捨てないで。お願い。もうこんな事しないからぁ……」
 もうしない。するわけない。こんな思いをするんだったら、はじめからホテルの人に事情を説明するんだった。こうなるなんて思わなかった。
 そんな涙声の澪を見ながら、詩亜が深く溜息を付く。そして彼女をふわりと軽く抱きしめ、呟いた。
「俺がお前を嫌うわけないだろ。まったく、どんだけ心配したと思ってるんだ」
 そして詩亜は澪の手を取り、二人の部屋へと向かっていった。

 * * *

 心臓が止まるかと思った。
 眠りから覚めた詩亜は、目の前には当然澪がいると思っていたのに、部屋のどこにも彼女の姿が見られないことを不思議に思った。不安に思った。時間は詩亜が寝始めてから4時間ほどたっているというのに。
 だから詩亜はすぐに彼女を探しに向かった。その先で見たもの。それは自分の妻が知らない男に肩を組まれている場面だった。
(なんで新婚旅行でこんな思いをしなきゃいけないんだ)
 詩亜はまだ泣く声が聞こえる澪の手を引きながら、部屋へと向かっていった。当然ズボンのポケットの中にはカードキーが入っている。
 あの男は澪が理解出来ない言葉で、食事に誘っただけと言っていた。しかし、その先には当然大人の関係が待っているはずで、それを考えると詩亜が寒気がするような気がしていた。
 澪が?他の男と?
 5年前、澪が兄と一緒にいるだけでも嫌だったのに、見ず知らずの外国人に肩を組まれる彼女を見つけた時の衝撃は、きっと当分消えそうにない。それだけ詩亜は澪が大切だった。こんな事なら、硝子ケースにでもしまっておきたいと思っていた。
(……でも俺も悪いのか。せっかくの新婚旅行なのに、俺はすぐに寝てしまった)
 新婚旅行の為に仕事を休む期間は1週間。それは社会人にしては長い休みだったけれど、詩亜はこの日まで彼女と一緒にいるという事をずっと我慢していた。きっと帰ってからもそうなってしまうだろう。それだけ詩亜にはたくさんの仕事が控えていた。だからこの1週間だけは、絶対に澪から離れない、そう思っていた。
 それなのに。
 そして詩亜と澪は、無事にホテルの部屋に戻ってくる。そこはこのホテルに5つしかないデラックス・スイートで、もちろん他の部屋とはまったく違った豪華な作りをしていた。
 詩亜は部屋に入るなり、澪の手を離し、こう告げる。
「澪、水着姿見せてよ」
「え?」
 まだ涙が止まっていない澪。しかし、いきなりの予想もしない詩亜の言葉に、彼女は目を丸くして驚いているようだった。
「夕飯前にジャグジーでも入ろうと思ってさ。ほら、テラスについていただろ?普通なら裸だけど、せっかくだからお前の水着を一番に見ようと思って。買ったんだろ?新しいやつ」
 この部屋にはテラスにプライベートジャグジーが付いていた。もう日は落ちかけていて、窓からは真っ赤な夕日が見えている。それを見ながら入るジャグジーは最高に違いなかった。
 詩亜の頼みに澪はどうしようかと迷っているようで、オロオロとしている。だから詩亜は悪戯な顔をした。
「何?こんなに困らせておいて、俺の頼みを断るのか?」
 こんな時にこんな頼み。でも詩亜は澪に『もう怒ってない』というのを知らせたかった。その結果がこれだった。それを澪が分かってくれたかどうか。
 それに、澪が詩亜を困らせたのは事実。だからこの頼みも絶対に聞いてくれるものだと分かっていた。
(まあ、他人に見られる前に、俺がじっくり見たいだけだけどな)
 そんな詩亜の頼みに、澪は渋々首を縦に振っていた。

 部屋のリビングルームから出られる大きなテラス。その真ん中に作られた小さめのジャグジーは下から電気を照らされ、泡がモクモクを立っていた。
 澪には水着で来るように伝えた詩亜。でも自分はリビングで服を脱ぎ、もうすでにお湯に中に入っていた。ちょうどよい温度の液体が体にまとわり付いてくる。それプラス、テラスから見える夕日に照らされた海がとても美しく、なんという楽園なんだろうと思わせてくれた。



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