誰がための小夜曲
最終部 あなたが好きだから
【1−2】
澪はホテルのロビーを出来るだけ早足で歩いていた。誰も追いつけないように、誰にも止められないように。
『どうしたら、紗夜子さんとの婚約を確実な物に出来ますか?』
『大勢の前で発表してしまえばいいんです。そうすれば詩亜はもう逃れる事が出来ない』
それは武と決めた事だった。きっと今ごろ、宴会場では御堂と神宮寺の鉄のような繋がりが発表されている頃だろう。だから澪は詩亜をあの中に押し込んで、こうしてあの場を後にしていた。もう何も聞きたくないから。
「澪!待てよ!」
しかし、後ろから聞こえてくる声。もう聞きたくなかった声。でも聞きたい声。
本当はこのままこの場を去らなければいけないのに、澪の足はまるで金縛りにあったかのように立ち止まってしまった。しかし、振り向いてはいけない。それだけは出来なかった。
ロビーは新年の為か宿泊客もまばらでとてもひっそりとしていた。だから詩亜の声だけがロビーに響き渡る。
「これはお前の仕業か?!なんでこんなことするんだよ!」
これで詩亜と紗夜子の婚約は確実なものになった。さすがの詩亜ももう逃れる事は出来ないだろう。これでいいのだ。これで。澪は今にも泣き出しそうな気持ちをグッと堪えた。
裏切ったと思っているだろうな。澪はこの結末を考えた時、詩亜はそう思うだろうな、と思っていた。だって、澪は詩亜を、彼が一番嫌いな世界に押し込めてしまったのだから。だから彼の声はとても荒ぶっている事も承知の上だった。
澪は唾をゴクンと飲んで、心を静めた。そして彼を見る事なく、話し出す。
「だって、あなたは御堂の人間だもん。こうなる事が一番いい事なんだよ」
紗夜子は詩亜をとても愛している。なら詩亜も彼女を愛せば、辛い世界だとしてもきっと幸せに変わるだろう。澪は詩亜にそうなって欲しかった。それが誰もが望む事だったから。それが自分だけ身が引き裂かれそうな気持ちになるとしても、耐えればいいだけ。乗り越えればいいだけ。そう思っていたから。
だって私があなたと出会ったのはつい最近だもの。きっとそれは神様が与えてくれた夢。幻。楽しい夢は目が覚めれば忘れるもの。だから私は忘れるの。
「私とあなたとは世界がまったく違うの。だから私は元の世界に戻る。あなたも元の世界に戻って」
「なんだよ!なんでそんな事勝手に決めるんだよ!」
勝手にしなきゃ、賛成してくれた?してくれなかったでしょ?
「……じゃあ。じゃあ、どうにか出来た?詩亜君が紗夜子さんと結婚しないと、御堂グループは危なくなるんでしょ?それをあなたはどうにか出来た?詩亜君はモデルとして立派にやってると思う。でもそれとこれとは話が違うと思うの。そんな責任重大な話に、私を巻き込まないで」
「それは……」
声を詰まらせる詩亜。それはそうだ。彼にどうにか出来るとは思えない。それだけ御堂の世界は巨大なのだから。だから澪はギュっと拳に力を入れる。
「いい?あなたはまだ高校生で、御堂グループの御曹司。ヌクヌクと暮らすのはもう辞めて、御堂の為の将来を考えた方がいいのよ。紗夜子さんとの未来をね」
澪から詩亜の顔は見えない。でもきっと怒っているだろう。それだけの事は言ったんだ。澪はそう思っていた。
「それがあなたの未来じゃない。あなたはどうやっても御堂の人間だもの。私なんて忘れて、御堂家として生きていって」
もうあなたと私の道はぶつからない。交差もしない。そう決めたのは澪自身だった。だから泣いてはいけない。このままこの場から去ってしまえばいい。聡史との事のように、忘れてしまえばいい。
でも駄目だった。
涙は一度流れたら止まらない。
止める事は出来ない。
だって、だって。
あなたが抱きしめてくれたから。
優しいあなたの腕が、私の体を抱きしめる。
澪は考えうるすべての言葉を詩亜にぶつけた。苦しくても辛くても、そうしなければいけなかったから。それで詩亜が離れてくれると思っていた。それなのに、彼は澪を抱きしめてくれる。後ろから。強く。
「じゃあ、俺の気持ちはどうなるんだよ。俺を気持ちを無視して、勝手に決めるなよ……」
体を抱きしめてくれる力はとても強いのに、詩亜の口から発せられる言葉はとても弱かった。そんな震えるような声に澪の胸がさらに苦しくなる。
「俺は御堂の人間だ。紗夜子との……、神宮寺との繋がりがなくなればどうなるか、それは俺でも良く分かってる」
じゃあ?じゃあなんで抱きしめるの?もう私をほっておいて。澪はそう思っていた。しかし、詩亜は澪から離れようとはしない。さらに強く抱きしめられる。
「でも、俺はお前が好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。この気持ち、どうすればいい?お前は忘れろという。でも忘れられるわけがない。俺はお前を知ってしまったんだから。俺はお前の傍にいたいと思ってしまったんだから」
今にも泣き出しそうな詩亜の声。そんな声を聞いてしまったら、澪も思わずにはいられなかった。
(私も。私もあなたを知ってしまった。好きになってしまった。夢?幻?そんなの嫌。あなたはこうして存在しているんだから)
でも。
「でも、どうしようもないの。こうするしかないの。ごめん、ごめん、詩亜君……」
もう泣くしか出来なかった。悲しむしか出来なかった。澪は詩亜と離れたくないから。でもそれは許されない。自分がこの出来事の結末を作ってしまったから。
そんな震える澪に、詩亜は抱きしめる力を緩め、澪の体を自分に向かせ、涙がとめどなく流れる彼女の頬にそっとキスをした。それがとても優しくて、澪はさらに涙を流す。
「なんで、なんでこうなるんだよ……。くそっ!」
詩亜は悔しそうに廊下の壁を強く叩いた。そしてそのまま固まる。
いくら怒りをぶつけても、体を固めたとしても、もう決まった事は変えられない。残酷な結末。
「澪……。俺はお前を……」
そして詩亜は澪の体をロビーのベルベット地の壁に押し付け、強引に唇を奪った。でも、澪をそれを抗う事はしなかった。
「詩亜君……。詩亜君……」
名前を呼び合う事しか出来ない。口付けしあう事しか出来ない。それしか今の二人には出来なかった。
「お前が好きだ。好きなんだよ」
詩亜は誰もいないロビーで澪の服に手を突っ込み彼女の膨らみを激しく掴む、そして首筋に強く吸い付いた。跡が付くように。俺のものだと言わんばかりに。それに澪も答えるように体を反らせる。
(離さないで。お願い。この手を離さないで)
そうは思っても、二人ではどうする事も出来ないという事はよく分かっていた。でもこうして詩亜に抱かれると、澪は心に決めた決意を忘れそうになる。このまま身を委ねたくなる。
そして澪は詩亜に手を引かれ、掃除をする為に扉が空いていた誰もいないホテルの空き部屋へと入っていった。それは最後の抱擁。その為の舞台だった。
澪はエリュシオンホテルの外観を見上げていた。真っ白でどこか宮殿を思わせるような荘厳な作り。その名前の通り、ギリシア神話に登場する楽園のようだった。しかし、澪はそれを眺めながら、もう見る事もないな、と思っていた。
詩亜に言われた別れ際のセリフ。
『俺は自分の力でこの固い殻を破ってみせる。そうじゃないと一生後悔しそうだからな』
それが澪の心に響いていた。
(詩亜君、ありがとう。私ももうくよくよした生き方はしない。私は私なんだもんね)
澪は今まで美人だったり可愛かったりする人を羨ましく思っていた。自分はただのOLなんだと。でも詩亜と出会って、自分は自分でいいんだ、と思うようになっていた。こんな自分でも好きになってくれる人がいる。好きと言わせてくれる人がいる。それが澪の自信になっていた。
それに澪は澪として生まれた。詩亜が御堂として生まれたように、澪は青島澪なのだ。亜里沙になりたい。紗夜子になりたい。そう思っていてもなれるわけがない。それならば、誰かになりたいと思わず、青島澪として後悔しないように生きていこうと。それを教えてくれたのは詩亜だった。
そして、澪はホテルを後にする。私は新しい生活を始めよう、そう思いながら。
その2日後、澪は会社に辞表を出し、新幹線で3時間かかる実家へと旅立つのであった。
すべて新しく始めるために。すべてを忘れるために。
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