誰がための小夜曲


最終部 あなたが好きだから
【1−1】


 武はホテルのロビーで澪と向かい合っていた。
 今日は御堂グループの新年会がエリュシオンホテルで行われていて、来賓の方々と話している時にホテルのボーイが『武様のお知り合いの女性という方がお呼びです』と言われたので、武はロビーまで出て来ていた。そしてすぐにとても真剣な顔をした澪が立っている事に気が付いた。もしかしたら詩亜も一緒かと武は思っていたけれど、詩亜の姿はどこにもなかった。必ず出席するようにと言っておいたのに。
 そして武は澪と話した。もちろん話題は一つ。
「本当にいいのですか?」
 武は澪の話に怪訝な顔をしていた。しかし、澪の顔はあくまで真剣。嘘を付いているようには見えなかった。
「はい。もう決めましたから。私のせいで武さんたちに迷惑かけたくないので」
 迷惑。その理由は武も分かっていた。なぜならこれは自分が仕組んだも等しい事だったから。紗夜子に澪と詩亜の関係を黙っていれば彼女が自分の所に来る事もなかっただろう。しかし武は紗夜子に告げていた。その結果がこれなんだと。
 しかし武はこんなに簡単に彼女が引き下がるものだとは思っていなかった。これから泥沼になるのではないだろうか、と思っていた。そうだとしても、自分も引き下がる気もなかった。詩亜は神宮寺に入ってもらわなければならない存在。神宮寺との関係がなくなる事は、御堂グループにとって大きな痛手となりえる。だから詩亜と紗夜子が結婚する事は絶対な事だった。
 それなのに、こんなに早く彼女は自分を頼ってやってきた。それに武は驚いていた。
 だから武はまだ怪訝な顔を解かず、澪を見ている。
(彼女の詩亜への好意はそんなものだったのか?)
 二人がお互いをどれくらい想っているのか、そんなもの武には少しも分からなかった。分かりたいとも思わなかった。しかし、武は澪を知っている。だからはじめて会った時の事を思い出す。
(澪さんはいつも一生懸命で、人を好きになったら騙されていたとしても全力投球。それは詩亜に対してもそうだと思っていたが……。違っていたのか?)
 でも、彼女が身を引いてくれるのは願ってもない事だった。
 しかし。
 なんだろう。
 胸が痛む。キリキリと。
「もう一度聞きます。本当にいいのですか?」
 なんで二回も確認しなければならないんだ。このまま彼女を追い返せばすべて終わる。武は心の中でそう思っていたけれど、目の前にいる女性にはどうしてももう一度聞いてみたかった。
(くそっ。俺は何を考えているんだ。これは計画通りの事だろう。それならこのまま……)
 表と裏の武がぶつかり合う。こんなこと初めての事だった。武は気が付いていなかったけれど、彼氏にふられて酔ってグチを零した彼女を武はどこかで気に入っていたのかもしれない。その後は彼女は武に対して殻に閉じこもったようになってしまったけれど、それでも武は澪の本音をこの目で見ている。だからなのか、親に気に入られただけで彼女に交際を申し込んだのは。しかし、それはもう過去の話。今は武にとっての澪は、弟の『邪魔な彼女』になってしまっている。
 澪は武の言葉にただ強く頷いていた。しかし、先ほどとは何かが違う。
(もしかして、震えている?)
 武は頷いたまま顔を上げない澪を見ていた。よく見ると彼女は両手を強く握り締めて、足が少し震えている気がする。
(我慢している?)
 何を?それは決まっている。それくらい自分にも分かる。
(そうか。やはり彼女は……)
 だから武は尋ねる。
「そんなに詩亜が好きなのですか?」
 その言葉に澪は顔を上げた。言わなければ良かった、と武は彼女の表情を見て思った。なぜなら澪の顔は苦痛、悲痛、どうとでも取れる表情だったから。とにかく、彼女は悲しんでいる。詩亜との『別れ』を。武に対して助けて、と言わんばかりに。
(自分を犠牲にする気、か……)
 それなら詩亜は?この決意は詩亜の合意の上ではない、と澪は言っていた。詩亜も澪に好意を抱いているのは明らかなのに、勝手に離れていくというのだろうか。今まで好き勝手やっていた弟だったけれど、誰かを欲しているのを自分に見せた事は一度もなかった。それなのに。
(分からない。何故辛い思いをしてこんな簡単に別れようとするんだ)
 人を好きになった事のない武にとって、すべてが理解出来ない事ばかりだった。
(でもこれですべて解決じゃないか。これは俺が望んだ事だろう?)
 しかし、目の前で必死に涙を堪えている澪を見ていると胸が痛む事は確かで、今までこんなこと一度もなかったから武は戸惑う。
 しかし、感傷的になっていてはいけない。俺は御堂グループを支えなければならないから。そう思っていた。だから武は心に生まれた感情をグッと奥へと押し込み、そして澪をいつもの作り笑顔で見つめた。
「では、詩亜を呼び出して下さい。後はすべて私がやりますので」
「……はい。分かりました。宜しくお願いします」
 まるで死刑宣告だな。武はそう思っていた。

 * * *

 詩亜は澪に携帯で呼び出されて、来たくもなかったエリュシオンホテルまで来ていた。今日、御堂グループの新年会が行われいるのはもちろん詩亜も知っていて、この場所に来てもいい事はない、と詩亜は兄の命令を無視していた。それなのに澪からのメールで詩亜はしょうがなくこの場に足を踏み入れていた。
「なんであいつがここにいるんだよ。もしかして兄貴に呼び出されたのか?」
 澪ならそれはありえるな、と詩亜は思っていた。武がいる所に澪がいる。それは詩亜には我慢出来ない事だった。だから詩亜はしょうがなく来たくもない場所に来ていた。重い重い足取りで。
「詩亜君、こっちこっちー」
 澪が新年会が行われている宴会場の扉の前で手を振っている。だから詩亜は溜息を漏らしながら澪に近づいていった。
 宴会場からは色々な音が聞こえてきているけれど、二人がいるロビーはホテルの関係者がまばらにいるだけで、ひっそりとしていた。
「澪、俺はここに来たくないって言っておいただろ。それなのに、なんで呼び出すんだよ」
「ごめんごめん。だって今日は御堂家の大事な新年会でしょ?だったら詩亜君もちゃんと出席しなきゃね」
 そうは言っても、紗夜子が帰ってきた今、御堂の集まりに行ってもその話題を避ける事は出来ない。だから詩亜はとても怖かった。婚約自体を断れればいいのに、話はそんな簡単なものではない。だから卑怯だけれど、このまま時が過ぎてしまえばいいと詩亜は頭のどこかでそう思っていたのかもしれない。
「さ、さ、中に入って。一通り挨拶すればそれでいいと思うしさ」
 澪は詩亜の腕を掴んで、宴会場の中に誘導しようとしていた。少々焦り気味で。だから詩亜は溜息を付いて一歩前に歩き出す。
「……分かったよ。あーあー、めんどくせぇ」
 誰の頼みでも詩亜は従わなかったかもしれないけど、これは澪の頼み。たとえ武に言われたからといっても、澪に言われれば話は別だった。それだけ詩亜は澪に好意を抱き、信頼していたのかもしれない。
 そして澪が広間の厚い扉を開けてくれたため、詩亜はその中に入っていった。
(……ん?)
 なんだろう。何か違う。
 詩亜は新年会が行われている人が2、300人は簡単に入るであろう宴会場に入った時、そんな不思議な感覚に捕らわれた。それはただその場に入っただけなのに、たくさんの視線を感じる、そんな感じだった。
(なんだ?なんなんだ?)
 そして詩亜は広間の一番端にある壇上にある人物を見つける。その人物はマイクを手に持ち、詩亜の方を見ている武の姿だった。武の冷ややかに笑ったその表情は、まるで詩亜がその場所から今入ってくるのを知っていたかのようだった。武の横には紗夜子の姿もある。
(……もしかして)
 詩亜の体に冷たいものが走る。そしてすぐに聞こえてくるであろう武の声を、詩亜は頭の中ですぐに連想していた。



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