誰がための小夜曲


第4部 揺れ動く想い
【3】


 雨が降る。厚い雲が予告した通り、小粒の雨が大地に降り注いでいた。
 紗夜子が帰り、澪は雨の中、マンションの前で立ち尽くしていた。まるで雨が降ってきたなんて気が付かないように、体を少しずつ濡らしながら。
「澪?そこにいるのは澪か?」
 呆然と雨の中を立ち尽くす澪の耳にそんな声が入ってきた。だから澪は声の方を向く。そこにはビニール傘を差した詩亜が立っていた。学校帰りに仕事をしてきたのだろう、彼はいつもの制服姿だった。
 愛しいあなた。私はなんでこの人を好きになってしまったんだろう。好きにならなければこんなに苦しむ事もなかったのに。そう思っても想いは止められなかった。
「な、なにやってんだよ!」
 詩亜は雨に濡れた澪に驚き、彼女の手を引っ張って、マンションのエントランスに引き入れた。
「どうした?何かあったのか?」
 そんな驚いて目を見開いている詩亜に澪は微笑んだ。
「ううん。ちょっと美雪と電話しててさ、雨に気が付かなかったの」
 苦しい言い訳。でも澪は静かに詩亜を見ていた。詩亜は澪の体に付いた雨を手で払ってくれている。
「なんだよ、それ。雨、けっこう降ってるのに、気が付かないわけないだろ」
 どしゃぶり、とまでは行かないけれど、もう地面全体が雨で潤ってしまっているくらいは降っている。だから澪の体は頭から肩にかけて濡れていた。
「ううん。ホントだよ。私、話に夢中になっちゃうと周りが見えなくなっちゃうんだ。それに、携帯も防水だから、大丈夫だよ」
 えへへ、と詩亜の前で笑った。笑っておいた。
 そんな澪を、詩亜は溜息を付きながら見ていた。
「もー、意味わかんねぇ。でもこのままだと風邪引くぞ。はやく部屋に入ろう」
 そして澪は詩亜に手を引かれ、雫を落としながらマンションの中へと入っていった。

 くしゅん。
「37.5度か。少し熱があるな」
 寒い日に雨の中で長時間立っていたせいと、詩亜の事で心が弱くなっていたせいもあって、澪は見事に風邪を引いてしまった。澪は部屋に入って冷たくなった体を温める為にすぐにシャワーは浴びたけれど、上がってきたらもう第一弾のくしゃみは発生してしまっていた。
「澪、大丈夫か?薬の買い置きある?」
 澪は詩亜に言われてベッドに入っており、彼の問いに薬箱の場所を教えた。
 頭はすでにボーっとしていて、きっと熱があるんだろう。少し寒気もしていた。
「俺、ちょっと栄養剤とか買ってくるよ。お前はおとなしく寝ていろよ」
 詩亜はお金持ちのボンボンなのに他人の病気の為に動いてくれる事に澪は驚いていたけれど、今の自分にはとてもありがたい事だと、軽く頷いた。
「ごめんね、詩亜君……」
 本当なら今日はデミグラスソースをたっぷりかけたハンバーグを詩亜に出すつもりだった。それなのにこんな状態になってしまって、澪は詩亜に申し訳がなかった。しかし、詩亜はベッドの中で弱気な声を出す澪の頭を撫でる。
「何言ってんだよ。お前は病人なんだ。病人らしくしてればいいんだよ」
 そう言ってイヒヒと笑う詩亜に澪は手を伸ばして彼の髪に触れた。サラサラでいい匂いのする詩亜の綺麗な髪の毛。それはとても触り心地が良かった。そんな澪の手を詩亜が掴む。
「どうした?」
 いつもはそんな事をしない澪の行動に詩亜は首を傾げていたけれど、澪は少し空ろな目で詩亜に微笑んだ。紗夜子がなんて言っても、自分は彼が好きなんだ、そう思ったから。私はこの綺麗な人を心から好いているんだと。
「じゃ行ってくるな。すぐ戻ってくるけど、何かあったら携帯に連絡してくれ」
 そう言って詩亜は澪の枕元に澪の携帯を置き、澪のおでこに軽くキスをして部屋から出て行った。
 意識の遠くで、詩亜が外に出て行った音がする。しかし、澪はそれと同時に澪も布団中で眠りの世界に落ちていった。

「澪、澪、起きてるか?」
 そんな優しい声で澪は目を覚ます。でも体は相変わらずフワフワしていて、ベッドの中でも体の調子が悪いという事を思わせてくれた。
 詩亜はベッドに座り、澪を見下ろしていた。だから澪は目を開けたと同時に詩亜の顔が視界に入ってきた。
「薬を飲む前に胃になにか入れたほうがいいと思って、おかゆ作ったよ。食べれるか?」
 澪はうんと頷いて、ベッドから起き上がろうとする。熱のせいか、体が重い気がする。だから体を上げづらそうにしている澪を、詩亜が背中に手を当てて助けてくれた。
「……ありがと、詩亜君」
 弱々しい声で澪は詩亜にお礼を言う。そんな澪に詩亜は軽く頷いてくれた。
 そして澪は詩亜が用意してくれたと思われるおかゆを口にする。卵を落とした簡単なおかゆだったけれど、それでも温かな食事は胃の中に染み渡った。とても美味しかった。
 澪がゆっくりと食事している間、詩亜は静かに見ていてくれた。たまに『何を買ったらいいかわからなかったよ』とか『スーパーなんて何年ぶりに行ったかな』なんて他愛のない話をしてくれ、澪はそれにおかゆを食べながら頷いていた。そんな静かな時が澪にはとても嬉しかった。
「あとこれが薬、一緒に栄養剤も飲んだほうがいい。風邪に効きそうなのを買ってきたよ」
 そう言って詩亜が家にあった風邪薬と、買ってきたビン入りの栄養剤を出してきた。澪はそれを両方胃の中に入れる。そしてまたベッドに横になった。
「熱、けっこうありそうだな。冷たいタオル持ってきてやるよ」
 詩亜は澪のおでこに手を当ててそう呟いた。たしかどこかに冷えピタ――冷たくなるシートのようなもの。それをおでこに貼ると熱を吸ってくれる。――があったはず、そう澪は思っていたけれど、それを説明するのもとてもだるくて、澪は詩亜に伝える事が出来なかった。でも詩亜はタオルを水で冷たくしてくれて、澪のおでこに乗せてくれた。それはひんやりとしていてとても気持ちの良いものだった。
「じゃ、ゆっくり寝ろよ。おやすみ」
「おやすみ……。ありがとね、詩亜君」
 そして詩亜は電気を消し、部屋から出て行った。

 彼はなんでこんなに優しくしてくれるんだろう。
 澪はベッドの中で丸くなりながらそんな事を思っていた。体はとてもだるい。寒気もブルブルする。それなのに、頭の中は詩亜の事でいっぱいになっていた。
 自分は紗夜子と違って何も与える事は出来ない。ご飯を出せたり、部屋を貸したり、そんな事は誰だって出来るだろう。でも自分には詩亜のプラスになる事をするという事が出来るとは思えなかった。それなのに詩亜は自分にこんなにもよくしてくれる。優しくしてくれる。
(詩亜君。好き……。好きなの……)
 詩亜への想いが澪の心を支配する。詩亜という存在を思うたびに澪の体は熱くなる。それは熱にも似た感覚だったけれど、決して不快ではなく、むしろとても心地よかった。人を愛する、それはとても気持ちがいいものだった。
 でもそう考えるのと同時に、紗夜子の言葉も澪の頭には響く。『神宮寺との繋がりはとても大切なの。私がしーちゃんと結ばれないなら、その繋がりはなくなります。あなたにはその責任が取れるんですか?』と。家と家とが繋がる為の結婚。それは政略結婚であったけれど、それでも紗夜子は詩亜を愛している。だから、誰もが望むその結婚を自分のせいで駄目にするなんて澪には考えられなかった。御堂の両親にも武にも迷惑をかけたくなかった。
 だから澪は布団の中で涙する。詩亜に聞こえないように、静かに。でもそれも少しの時間で、澪は頬に涙の筋を作りながら、そのまま眠りに落ちていった。

 * * *

(……泣いていた?)
 詩亜はタオルを取り替える為に澪の寝室に入ってそれに気が付いた。布団の中で丸くなって寝ていた澪の体をまっすぐに正し、布団も整え、まだ少し熱いおでこにタオルを乗せた。その時に澪の頬に涙の筋がある事に気が付いていた。
(どうした澪。何があったんだ?)
 今日帰ってきた時に澪の様子がおかしかったのは明らかだった。でも彼女は自分に何も言ってはくれなかった。ただ笑顔で、友達と電話していたとしか言ってくれなかった。それが詩亜には苦しかった。
(澪が苦しんでいるのに、俺には何も出来ないのか?)
 澪が苦しんでいる原因。その原因は自分にあるのではないかと詩亜はそう思っていた。澪はずっと武の事や紗夜子の事を気にしていた。それならば、澪が苦しんでいる原因がそこにあるんだと。
(ごめん。ごめん、澪。俺はお前を苦しめたくないのに)
 それでも自分が御堂の人間であるという事を消し去る事は出来ない。自分が普通の家庭に生まれて、そして澪と出会っていたなら。そう考える時もあった。でも御堂だったから、武の弟だったから、彼女と出会う事が出来た。
 こんなに好きなのに。こんなに愛しいのに。それなのに一緒にいてはいけないのか?そう思うと詩亜の心は急に苦しくなる。
(俺に力があれば……。親父とおふくろ、兄貴を黙らせられるくらい力があったら……)
 詩亜はベッドに腰を下ろし、澪の手を握りながら軽く笑った。
(そんなもの、俺にあるわけがない。敵は強すぎる。敵うわけなんかない……。一体どうしたらいいんだ)
 それならば澪と離れればいい。そうすれば彼女を苦しめずにすむ。でもそれは出来なかった。詩亜は澪がとても好きだったから。彼女をこの手から離したくなかったから。自分のワガママなのは分かっていてもこうして澪に会いに来てしまう。
 そして詩亜は暗闇の中、澪の顔を見つめながら、自分の存在を呪うしか出来なかった。


 * * *

 次の朝、澪は目覚ましのおかげではなく、自然と目が覚めた。時計を見ると時間はまだ6時前。ずいぶんと早く起きてしまっていた。
 詩亜の早急な対処のおかげか、体は楽になっていて、体温を測ったら平熱に戻っていた。だから澪はベッドから体を起こしてンーっと上に伸びをした。するとおでこに乗せてあったタオルが下へと落ちる。
 そのタオルを見て、澪は詩亜の顔を頭に浮かべる。
「詩亜君にはすごくお世話になっちゃったな。後でお礼言っておかないと」
 澪はそう小さく呟きながら、ゆっくりと病み上がりの体を動かし、リビングへと向かった。喉が渇いた、何か飲みたい。そう思ったから。
「詩亜君はいつ帰ったのかな。夜中だったら申し訳ないなぁ」
 詩亜のマンションは澪のマンションから歩ける距離にある。きっと歩いて2、30分ほどだろう。だから詩亜はもうこの場にはいないものだと思っていた。
(え?)
 しかし、澪がリビングの扉を開けて見たもの。
(詩亜、君?)
 それはソファーで横になって寝ている詩亜の姿だった。
(どうして?帰ったんじゃないの?)
 てっきり詩亜はもう帰ったものだと思っていた。澪は風邪で相手をする事は出来ないし、すぐに眠ってしまっていた。それなのに彼はこうして澪のマンションで眠っている。
 眠る詩亜の姿に困惑しながら、澪は部屋を見回した。するとダイニングテーブルには水がこぼれそうなほど注がれた洗面器や、その周りには、何枚かの濡れたタオル、風邪薬などが散乱していた。それにキッチンには、澪が食べたおかゆを作るために使ったのか、鍋や炊飯器の釜などが洗わずにシンクに残っていた。
 それは詩亜が不器用ながらも澪の看病の為に色々してくれたという証拠だった。それを見て、澪の瞳には涙がたまる。
(私の為に……、私の為にこんなにもしてくれたんだ。詩亜君……)
 そんな彼が愛しくて愛しくて、澪はその場で涙を頬に伝わせる。詩亜に聞こえないように声を殺しながら。
 なんで私たちは普通の恋愛をする事が出来ないんだろう。なんでこんなに好きなのに、苦しまなければならないんだろう。澪にはそれが辛かった。あなたに普通に好きと言えるならどんなにいいか。でもそれは出来なかった。それなのに詩亜はこんなにも優しい。
 そして澪はソファーで眠る詩亜の傍で腰を落とし、詩亜の手を握った。朝の寒さのせいか、手はとても冷たかった。
「ありがとう……」
 澪は詩亜にそう呟いた。今はそれしか言えなかったから。
「……ん、澪?」
 澪の声が聞こえたのか、手を握ったからなのか、詩亜の瞼がゆっくりと開いた。だから澪は頬に伝った涙を急いで腕で拭った。
「そうだよ、詩亜君、おはよ」
 すると詩亜は眠そうな目で、優しく微笑んだ。
「体はもう大丈夫か?」
「うん。詩亜君のおかげで元気になっちゃった。ほんとにありがとね」
「それは良かった。良かった、よ」
 そしてまた詩亜の瞼がふさがれる。きっと昨日は遅くまで起きていたのだろう。澪を確認してすぐに眠りに落ちていった。そして澪はそこに残される。静かな部屋の中に。
 詩亜の安らかな寝息が澪の耳に届く。それは世界で一番愛しい人の穏やかな息づかいだった。澪は詩亜をいつの間にかこんなにも好きになっている事に驚いていた。そして自分の為にこんなにもしてくれる詩亜の傍にいられて本当に幸せだった。
 でも。
 でも。
 このままずっと彼の傍にいていいのか、という気持ちが澪の体を支配していた。自分がこうして幸せでる事によって、悲しむ人たちが確実にいる。紗夜子や御堂の人たち、そして御堂グループの人たちまで。
 この件に関して詩亜と話した事は一度もない。でも詩亜の事だろう、大丈夫、俺がなんとかするって言うに決まっている。
 自分のせいで。そうはなってほしくなかった。詩亜に悲しい思いをしてもらいたくはなかった。
 だから詩亜の手を握り、彼の頬にキスをしながら、澪は心である決意をしていた。



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