誰がための小夜曲


第4部 揺れ動く想い
【2】


 ピピピ。目覚まし時計が鳴っている。そうか、今日は今年最後の出勤日だっけ。澪はそう思ってベッドから体を起こした。そして隣に寝ている詩亜に目を移す。
 澪の隣で寝息を立てて寝ている詩亜。いつも綺麗な詩亜だったけれど、寝顔もとても綺麗。まるで女性のような端整な顔立ちに澪は少し見とれてしまっていた。
(私、詩亜君と……)
 そう思うと顔が熱くなるのを澪は感じた。
 そして澪はベッドから起き上がり、そのまま会社へ行く準備をはじめた。
 
 詩亜と結ばれる事は本当に良かったのだろうか?澪は服を着替え、リビングで化粧をしながらそんな事を思っていた。
 自分は武の嘘の恋人で、驚く事に武に交際を申し込まれた。それに詩亜には両親によって決められた婚約者がいる。それなのに澪は詩亜と抱き合ってしまった。
 でも嬉しかった。詩亜が愛の言葉を耳元で囁いてくれる。詩亜が頬に口付けをしてくれる。詩亜が強く抱きしめてくれる。それら全てが澪にとっての幸福だった。なんでこんなに幸せを感じるのか分からないけれど、澪は詩亜といると本当の幸せを手に入れたような気がしていた。だから澪は詩亜と一緒にいる事がとても好きだった。
 でも。
 それでも頭の中から離れてはくれない武と紗夜子の姿。詩亜も含めて、彼らは澪とはまったく違った世界で生きている。そんな中から詩亜を連れ出してしまって本当に良いのか、澪にはまったく分からなかった。答えの出ない葛藤が澪の頭の中を渦巻く。
 そして澪はリビングの机に置いてある武から貰った指輪ケースに目を向けた。昨日詩亜が床に落としてしまったが、指輪にもケースにも傷一つなかった事に澪はホッとしていた。
 澪は武に出会って、誰よりも素敵で完璧な武に好意を持った。でもそれはLoveの『好き』ではなく、Likeの『好き』である事はたぶんずっと前から分かっていたんだと思う。たとえ武が傍にいてお湯が沸かせるほど顔を赤くしたとしても、それは憧れの人が傍にいるから、ただそれだけだった。もしかしたらそれが恋愛に繋がる人もいるかもしれない。でも澪は違っていた。なぜなら、澪の傍には詩亜がいたから。彼女は武より先に詩亜を好きになってしまったから。
(これ、返さなきゃ。今日帰りに武さんに会って返そう)
 そして澪は鞄の中に指輪ケースを突っ込んだ。それと同時にリビングの扉が開く。
「ふわぁ。澪、おはよう」
 そこにはまだ寝起きで目が完全に開いていない詩亜が立っていた。詩亜は手でゴシゴシを目を掻いている。
「おはよ、詩亜君。朝ご飯はパンがあるよ。そこのトースターで焼いてね」
 昨日の行為を思い出すと今でもドキドキする。でも初体験でもあるまいし、これくらいで戸惑っていてどうするのよ、と澪は詩亜に普通に接する事にした。それに詩亜の態度もいつもとまったく変わらない。澪は、詩亜は大人だな、なんて思っていた。
「はーいな。なんか飲みもんもある?」
「牛乳かミネラルウォーターかな。好きなほう飲んで。私はそろそろ出なきゃいけないから」
 今日は今年最後の出勤で、会社にいってもきっと大掃除しかしないだろう。だから澪はいつもより気が楽だった。といっても、澪は緊張する仕事なんてした事がなかったけれど。
「詩亜君は?今日も学校?」
「ああ。たしか今年の補習授業は今日で終わりって言ってたかな。ちゃちゃーっと行ってくるよ」
「そっか、頑張ってね」
「おうー」
 詩亜はそう言いながらパンを焼きにキッチンに入っていた。食パンをトースターに入れてダイヤルを回し、またリビングに戻ってくる。
「じゃ、私は行くね」
「おう。今日も一日頑張っておいで」
 詩亜はそう言って澪の頭をポンポンっと数回軽く叩いた。そしてそこにキスをする。
(あぁ、もう。反則だわ。ほんとに)
 澪はそんな事をしてくれる詩亜が可愛くてしょうがなかった。だから澪も詩亜の頬に軽くキスをした。
「あ、スペアキーそこに置いておいたから使って」
「りょーかい。いってらー」
 そして澪は詩亜を残し会社へ向かっていった。その手に持った携帯で武にメールを打ちながら。

 美雪にはすべてを呆れられていた。詩亜の事も武の事も。でも私は詩亜君が好きなの、と一応は宣言をしておいた。
「澪、お願いだから辛い目にだけは会わないでよ」
 澪の宣言に美雪はそう言ってくれた。澪はそんな美雪の言葉に躊躇いながら頷いていたけれど、自分の未来に幸せを感じる事は決して出来なかった。詩亜と一緒にいたいと思うことはそれだけリスクがとても高いと澪自身が思っていたからなのかもしれない。
「ごめんね、美雪。心配ばかりかけて」
 そんな澪の言葉に、美雪はただ悲しい顔をするだけだった。

 そしてその日の夕方、澪は武のオフィスに来ていた。澪は前と同じくビクビクしながら御堂グループのビルに入り、嫌な顔をされながら受付嬢に話しかけ、そして、今こうして武のガラス張りのオフィスの中にいる。
 オフィスについた時、武はどこかに電話を掛けているようで、電話で難しい事を話しながら、彼は澪にそこに座っているようにとジェスチャーで指示した。だから澪は座り心地の良い黒革の椅子に座っていた。
「すみません。お待たせいたしました」
 そして数分後、電話を切った武が澪にいつもの笑顔を向ける。これはもうお決まりだな、と澪は思っていた。澪も含めて、世の女性なら彼の微笑みにノックアウトされてしまうだろう。それが恋愛に繋がるかは別として。
「今日は何のご用件でしょう?」
 武にメールを送った時、用件は特に書かなかった。『お話があるんですが、会っていただけますか?』だけ送っておいた。だから澪は鞄から指輪ケースを取り出して、武のオフィスのデスクに置いた。
「武さん、すみません。この間のお話、お受けする事が出来ません。だからこれを返しに来ました」
 すると武は一瞬、指輪ケースを細い目で見つめ、またいつもの穏やかな表情に戻って澪を見つめた。
「なるほど。そういうお話でしたか」
 そして武は指輪ケースを手に取った。
「原因は、詩亜、ですか?」
 武の口から出た詩亜の名前。それに澪は決して驚きはしなかった。たぶんそれを言われるだろうと予想していたから。だから澪は軽く頷く。
 そしてしばらく武は何かを考えるような仕草をして、そして口を開く。
「分かりました。まあ、こういう事になるんじゃないかとなんとなく予想はしていましたけれどね」
 武の少し苦い表情。それに澪の心は何か細いものに刺されたように痛み、椅子かた立ち上がり武に深くお辞儀をした。
「武さん、本当にすみません。こんなことになってしまって。本当にごめんなさい」
 優しいあなたにこんな顔をさせてしまって本当に申し訳ない。実は心からそう思っていった。だから澪は深く深くお辞儀をする。
 すると武が軽く笑った。優しくて、すべてを包んでくれそうな微笑みで。
「僕の事は気にしないで下さい。でも分かっていると思いますが、あなたが進もうとしている道は前途多難ですよ。それでもいいんですか?」
 それでもいい。澪はそう思っていたけれど、それを口には出来なかった。本当に良いのか、心の奥ではどうか分からなかったから。
「まあいいでしょう。用件は分かりました。では私は仕事に戻りますね」
「はい。貴重なお時間を頂きまして、ありがとうございました」
 澪はもう一度深くお辞儀をして、武のオフィスを出て行こうとした。すると後ろから声が聞こえてきた。
「澪さん」
 だから澪は振り返る。そこには真顔の武がこちらを向いていた。
「何か困った事があったら私に言ってください。私にはそれだけの力がありますので」
 その言葉の意味は澪にはわからなかったけれど、『はい』とだけ答えておいた。そして澪は武のもとから去っていった。

 * * *

(簡単そうな女だと思っていたが、こうなるとはな)
 武は一人残されたオフィスでそう思っていた。淹れたての珈琲を手に。
 詩亜が彼女の家に居候をすると聞かされた時、そんな予感はしていた。詩亜が昔から自分達がいる特別な世界を嫌っていたから。澪は平凡な女性だったけれど、そんな彼女に詩亜が惹かれないという保障はどこにもなかった。
(はやく戻って彼らを引き離しておけば良かった。このままだと計算が狂ってしまう)
 武はつねにすべてを考えながら生きている。それは普通の人ならば息が詰まるような事だったけれど、武にはこれが普通だった。だからもう計算をせずには生きていけない。だから今回の計算違いに武の頭は痛みだす。
 そんな彼が何故澪を選んだのか。それは両親が澪を気に入っていたから。『武があんな素朴な女性を選ぶなんてね。でも真面目なお前にはいいかもしれないよ』父である総一郎がそんな事を言ったから。母親だって『感じのよさそうな子ね。あの子なら母さんも上手くやっていけそうよ』と言っていた。澪は自分にとってプラスになりそうな女性だった。だからを武は澪を選んだのだ。
 しかし、そう考える度に武の頭は混乱する。胸の奥がよく分からないくらい気持ち悪くなる。
(……本当にそうなのか?分からない。俺は俺が分からない。)
 自分が機械みたいだという事は武は分かっていた。でもそうでなければこんな大会社を支えてなんていけない。すべては御堂の為。すべては家族の為。すべては自分の為なのだから。
(このままでは駄目だ。軌道修正をしなければ)
 そして武は携帯を取り出し『神宮寺紗夜子』のメモリを見つけ、通話ボタンを押した。

 * * *

 どんよりとした厚い雲が雨の予感をさせる空をした夜、澪はスーパーで買い物を済ませ、自宅マンションへと向かって歩いていた。相変わらず夜道は暗い。詩亜からのメールで『仕事終わったらそっちいくから、なんかうまいもん作って待ってて』とあったので、今日はハンバーグにしようと澪は考えていた。
 また彼に料理が作れる。一緒に食卓を囲む事が出来る。そんな些細な事に幸せを感じながら、いくら武に指輪を返し、自分の身が解放されたとしても、詩亜の立場はそうではない事が澪の心を苦しめていた。彼には婚約者がいる。でも今は、今だけは彼といたかった。
 しかし、現実はそう上手くはいかない。思い通りにはいかない。なぜなら、マンションに着いた澪を、ピカピカに磨かれた黒塗りの車の横で紗夜子が待っていたから。彼女を見つけた瞬間、澪の体に嫌な予感が駆け巡る。彼女の口から出る言葉をすでにもう分かっているかのように。
「紗夜子さん……」
 紗夜子は暗がりにいる澪にまだ気が付いていないようで、先に声をかけたのは澪の方だった。紗夜子はその声に顔を上げる。
「……澪さん、おかえりなさい。貴女を待っていました」
 紗夜子は前に話したような親しげな言葉ではなく、固く真面目な言葉を発する。顔もどこか緊張しているような、強張っているようなそんな感じだった。
「私がここにいる理由は分かりますね」
 澪はそれに頷いた。分かっている。彼女は詩亜の婚約者なのだから。
 どこからこの話が彼女の耳に入ったのだろう。とは澪は思わなかった。ディズニーランドの件にしても、詩亜の事を武に言った事にしても、いずれは彼女は知ってしまうだろう。それが武に指輪を返したすぐ後でも澪は驚かなかった。それだけこの話は簡単な事では片付けられないと澪に思わせていた。
 そして澪が頷いた瞬間、紗夜子の顔が急に悲しみの表情になる。そして勢い良く澪の体を両手で掴んだ。
「ならしーちゃんを返して下さい。分かっているなら彼を私から奪わないで下さい」
 澪の体を強く揺らす紗夜子。彼女の手が澪の二の腕に食い込む。しかし澪には何も言えなかった。動けなかった。紗夜子が詩亜を好きだとしても、澪も詩亜が好きだったから。だから何も言えなかった。
 しかし、紗夜子は言葉を止めない。
「私はずっと、ずーっと、彼と結ばれる事をずっと夢見ていました。だから彼の為にいっぱい頑張って、しーちゃんが神宮寺を継いだ時の事を考えて、アメリカの学校で経営も学んでいます」
 瞳を涙でいっぱいに溜めた紗夜子。紗夜子はそれだけ詩亜が好きなんだと澪は知った。だから胸が苦しくなる。
「それなのに、貴女はなんなんですか?貴女は武さんの恋人じゃないんですか?」
「それは……」
 紗夜子が悲痛の表情で澪に訴えても、言葉を出す事が出来なかった。出そうとして詰まってしまう。
 澪は紗夜子の言葉に本当に何も言えなかった。彼女はお金持ちのお嬢様で、何不自由なく暮らしているかもしれない。それでも彼女は彼女なりに詩亜の為に頑張っていった。努力していた。じゃあ自分は?澪は自分に問いかける。自分が詩亜にしてきた事、それはただご飯を作っただけ。部屋を貸しただけ。好きになっただけ。
 澪は詩亜といた時間があまりに短すぎて、紗夜子の問いに自分の答えを見つける事が出来なかった。でも紗夜子は違う。彼女には詩亜を想っていた長い時間がある。それには敵わない、澪はそう思っていた。
「こんな事をあなたに本当は言いたくありません。でも私はしーちゃんが欲しいの。だから言わせてもらいます」
 紗夜子の瞳が急にきつくなる。澪はその瞳を見ていたけれど、すぐに目を逸らしたかった。もう見ていられなかった。
「御堂グループにとって、神宮寺との繋がりはとても大切なの。私がしーちゃんと結ばれないなら、その繋がりはなくなります。あなたにはその責任が取れるんですか?」
 取れるわけなかった。澪はただの普通の一般人だから。そんなの、取れるわけがなかった。



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