誰がための小夜曲


第3部 雪の降る夜に
【4−2】


 食事を終え、澪は武が呼んだ御堂家の車でマンションまで送ってもらってきていた。フレンチレストランから外に出たら車が待っていて、いつの間に武が呼んだのだろうと澪は驚いていた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
 車が止まって、澪はそう武にお礼を言った。すると武は微笑む。
「いえ、僕のほうこそとても楽しかったです。また誘っても宜しいですか?」
「は、はい。喜んで」
 澪は少し戸惑いながらそう言った。
「良かった。僕の気に入っている店が他にも何軒かありますので、今度はそちらにご招待しますね」
 そこもすごい店なんだろうな、と澪は武の話を聞きながら思った。だから、今度はもうちょっとましな服を着なきゃな、と思っていた。
「ありがとうございます。楽しみにしていますね。じゃ、おやすみなさい」
 そして澪は体を屈めながら車から降りようとする。するといきなり後ろから強く引っ張られた。
(え……?)
 それは一瞬の事だった。澪は手を引っ張られて何事かと振り向くと、そこには武の顔がまじかにあり、澪の唇は武の唇と重なっていた。
 時が止まってしまった。なぜなら澪は武とキスをしていたから。澪の唇と武の唇が優しく触れ合う。それだけの事だったのに、澪はその場で全ての時間が止まっているような気がしていた。
 しかし、それはたった一瞬だった。まるで挨拶のような別れ際のキス。澪にはすごく長く感じられていたけど、それはほんの一瞬だった。
 そして二人はゆっくりと離れる。すると、澪の目の中に武の顔が飛び込んできた。
(な、なんて綺麗な人なんだろう。詩亜君も綺麗だったけど、この人も……)
 はじめてまじかで見る武。詩亜の兄だけあって、眼鏡の奥の彼も彫刻のように整った顔をしていた。澪は呆然と武の顔を見ている。
「そうだ澪さん、紗夜子さんからの提案なんですが、今度皆でディズニーランドに行きませんか?彼女が行った事ないらしく、皆で行きたいと言っていたので」
 まるでキスはとっくに終わったというように違う話を始める武。それほど武にとってキスというのは簡単なものだったのだろうか。でも澪はその場で動けないでいる。だから武の言葉に澪は適当に頷いていた。
「良かった。紗夜子さんも喜ぶと思います。日にちが決まったら連絡しますね。では、おやすみなさい、澪さん」
「は、はい。おやすみなさい、武さん」
 そして澪はフラフラと車から降りて、ゆっくりと走り去る車をずっと眺めていた。

「私、武さんとキスしちゃったんだ……」
 澪はリビングのソファーに座り、ボーっと天井を見つめていた。まだ唇には武の感触が残っている。  ずっと憧れていた武。彼の傍にいくとドキドキして何も話せなくなる。だからこそ澪はまだ武には敬語以外の言葉で話す事は出来なかった。出会いがそうじゃなかったとしても。
 すると突然携帯が鳴り出す。でも澪はまだ夢から覚めていないかのように呆然とした頭のまま、バッグの中から携帯を取り出し、液晶画面を見ずに電話に出た。
「はい、もしもし……」
『うわ、なんだよその腑抜けな声は』
「え?し、詩亜君?」
 電話の向こうから聞こえてきた声、それは少し低い、だけど心地よい声の詩亜だった。だから澪は誰か確認しないで電話に出た事に少し後悔していた。ちゃんと見ていればこんな腑抜けな声を出さなくてすんだのにと。
「ど、どうしたのよ、いきなり」
 いきなりの詩亜からの電話。何かあったの?と澪は思った。
『別に、なんとなくな』
 しかし詩亜の声は別に何かあったかのように焦っているわけでなく、いつもの詩亜の冷静な声だった。詩亜は食事会の時は素っ気無かったけれど、今の声はそうではなかった。いつもの詩亜の声。だから澪はちょっとホッとしていた。
「なんとなくって。変な詩亜君。そうだ、学校ちゃんと行ってる?」
『当たり前じゃん。ありがたい事に兄貴が学校の目の前のマンションを契約しててさ。行かないわけにいかないんだよ』
「目の前って。さすが武さんだなぁ」
『そうなんだよ。兄貴はほんと、完璧な奴だよ』
 武は完璧。それに澪もウンウンと頷いていた。本当に彼は完璧で、どこにも隙がない。だからこそ、大会社の長を出来るのかもしれないけれども。
『澪はどうしてる?元気してるか?』
「ん?元気だよ。私はいつでも元気だもん」
 食事会で会ったじゃない。澪はそう思っていたけど、それを口にはしなかった。
『そっか。それならいいんだけど……』
 そして、しばしの沈黙。澪は詩亜と何を話していいのか分からなくて頭の中で色々考えていた。紗夜子の事?武の事?違う、それは話したくはない。そう思っていると、携帯の向こうから詩亜の声が聞こえてくる。
『あーあー、お前のから揚げ食べたいよ』
 だから澪はちょっとホッとする。澪は詩亜と話したかったから。
「えー?詩亜君はどうせいいものばかり食べてるんでしょ?私のから揚げなんて全然美味しくないよ」
 食事会に出された食事にしても、今日武と一緒に食べてきた料理も、どれもすごく高級で美味しかった。あれがお金持ちの食事なんだな、って澪は改めて実感していた。だから詩亜もきっとそうなんだと澪は思っていた。しかし、詩亜は澪の言葉を否定する。
『俺がお前の料理が良いって言っているんだから、他のと比べんなよ。それにお前の作るから揚げは絶品だと思うぞ』
「あはは、そうかな?ありがと」
 お世辞だとしても、詩亜の言葉は澪にとってすごく嬉しい言葉だった。やはり詩亜と話す事は楽しい。そう思わせてくれた。
『うお、澪、外見てみ』
 それはいきなりの詩亜の言葉だった。明らかに今まで話していた詩亜の声のトーンと違う。だから澪は驚いた。
「え?外?何?」
『いいから、窓の外、見てみろよ』
 澪は詩亜に言われた通り、カーテンがかかっている窓際に立つ。そしてカーテンを少し開いた。
「う、うわ!」
 窓の外を見た澪。すると外は大粒の雪がこれでもかというほど降っていた。さっきまでそんな気配はまったくなかったのに、今はたくさんの雪が空から舞い降りていた。
「雪だぁ。雪が降ってるー!」
 何故か雪を見るとテンションが上がってしまう。それはきっと誰でもそうだろう。澪ももちろん白い雪を見て一気にテンションが上がった。
『すげーな。こんなに降ってるの久しぶりに見るよ』
「うんうん。綺麗だなぁ……。あ、でもどうせなら昨日降ってくれれば良かったのにね」
『ん?昨日?なんで?』
「だって昨日だったらホワイトクリスマスになったじゃない?今日じゃふつーの雪の日だよ」
『ふつーってお前。昨日でも今日でも雪は雪なんだからいいじゃん』
「そーだけどさー」
 たしかに白い雪はとても綺麗で、都会ではもうあまりお目にかかれないものだと澪は分かっていた。でもそれより、こうして詩亜と笑い合える事の方が澪にとっては感動することだった。まるで傍に彼がいるように耳に聞こえる声は身近に感じる。
『なぁ、澪』
 それは詩亜の静かな言葉だった。
「ん?なーに?」
 まだ窓の外を見ている澪。外が寒いせいか、窓にはたくさんの水滴が付いていた。そんなものを見ていた為、澪は油断していた。
『またお前の所行ったら駄目か?お前の料理食べに行ったら駄目か?』
「え?」
 澪はいきなりの詩亜の言葉に胸がトクンと鳴った。そしてこう思った。嬉しい。来て欲しい。と。でも。
「駄目だよ。詩亜君には彼女がいるじゃない。彼女に美味しい料理作ってもらえばいいでしょ?」
 彼女。名前は出せなかった。それにこんな事本当は言いたくなかった。
『まあ、そうなんだけどな』
 否定して。それで私のところに来て。でも詩亜はそうは言ってはくれなかった。澪は当たり前じゃない、と苦笑する。
 そして澪は壁にかかっている時計を見る。そろそろ0時も回ろうとしていた。
「じゃ、私はそろそろお風呂に入るから切るね。明日も仕事だし」
 嘘。まだ話していたいのに。でもこれ以上話してはいけない気がしていた。
『ああ分かった。いきなり電話して悪かったな』
 悪くないよ。でもきっとこの気持ちは伝わらない。
「ううん。大丈夫だよ。じゃーね」
 電話くれて嬉しかった。それなのに口からその言葉が出てはくれなかった。だから澪はそのまま電話を切る。
「詩亜君……」
 ほんの少しの短い会話。それだけでもこんなにも胸が躍る。詩亜との会話は少しも緊張することなく、楽しく話せる。それは常に緊張している武とは違っていた。
「駄目だよ。駄目。駄目なんだから」
 でも詩亜は駄目だと澪は思っていた。だから澪は頭に浮かぶ詩亜の顔を振り払うように、リビングから出て浴室に向かっていった。



<< 前へ  戻る  次へ >>