誰がための小夜曲
第3部 雪の降る夜に
【4−1】
携帯に武からのメールが来たのは、澪がいつものように仕事をしている時だった。澪は机の中に入っている鞄の中の携帯がブーブーと震えているのに気が付いた。だから澪は仕事を一旦中断して携帯を鞄の中から取り出す。そのメールにはこう書いてあった。
『今日の夜、食事でもしませんか?ちょうど今の仕事が落ち着きそうなので』
武からの食事の誘い。澪はメールを見てどうしようか少し悩んだけれど、特に断る理由もないので、『是非に』と返信しておいた。
(武さんとお食事かぁ)
武にもらった指輪は箱のまま大事にしまってある。まだどう返事していいのか分からなくて、指にはめるわけにもいかないと思っていた。
(一体どうしたらいいんだろ……)
なんとなく言い出せなくて美雪にはまだ何も言ってない。きっと怒られると思っていたから。だから澪は携帯をもとの位置に戻して、仕事に戻っていったのだった。
会社が終わり、澪は武の指示通り、オシャレなお店や高そうな料理店が並ぶ複合施設の前に来ていた。そこは前に詩亜に連れられてクロトに行った場所と同じだった。
(あの時は楽しかったな)
あの時は詩亜に無理やり連れてこられた場所だったけれど、それでも素敵な服をプレゼントされ、行った事もない業界のパーティにも連れてもらった。それが澪の心にはまだ残っている。忘れられるはずなんてなかった。でもそう思うたびに紗夜子の可愛らしい姿が頭に浮かぶ。彼女は詩亜の将来を誓った相手だった。
そして澪はたくさんの人をかきわけ、エレベーターで四十階のフレンチレストランに来ていた。そのフロアはいかにも高そうな店が並び、一人だと絶対に入れないという場所だったけれど、一つの店の入り口に武の姿を見つけて澪はホッとする。そしてドキドキしながら澪は武に声を掛ける。だって武はスッとした細身のスーツ姿で、いつものようにカッコよかったから。
「た、武さん、こんばんは。待たせてしまったでしょうか?」
澪は少し震える声で武に話しかけた。すると武は澪に気が付いたように顔を向ける。
「いえいえ、大丈夫ですよ。昨日は澪さんをだいぶ待たせてしまったから、今日は絶対に遅刻はいけないな、と思ったら少しはやく着いてしまったみたいなので」
そう言って武は少しはにかんだ。その姿は澪が今まで見たことのないような武の姿だった。きっと世の女性達が『かわいい』と声を上げてしまいそうになる姿。だから澪は胸がトクンと跳ねた。
(やっぱり素敵。武さんって)
大人で、立派な仕事をしていて、素敵な容姿を持つ武。こうして二人でいると、彼の魔力に捕らわれてしまうような気が澪にはしていた。彼は詩亜とは兄弟だけれど、まったくの正反対で魅力的すぎた。だから澪は何度か武と合っているけれど、いまだに彼の傍にいるのは慣れない。緊張してしまう。
「じゃ、入りましょうか」
「は、はい」
武がフレンチレストランの中に入っていったので、澪も続いて入っていく。店内は薄暗かったけれど、窓の外の恐ろしいくらいに美しい夜景が店内を彩っていた。なんてすごい光景なんだろう。澪は言葉を失ってしまった。
それにお店自体がいかにも値段が高そうで、セレブな大人達がくるフレンチレストランだった。それは、いつもチェーン店ばかり行っている澪にはまったく縁がないような店。さすが武だな、と澪は思っていた。
「澪さん、こちらですよ」
店内に入って立ち尽くしていた澪を武が名を呼ぶ。だから澪はハッとして武のいる席まで向かっていった。
このレストランは全ての席が窓際にあり、どの席に座っても自分は特別なんだと感じさせてくれる造りをしていた。だからもちろん、澪も店員に席を引かれ座ると、まるでお嬢様になったような気がしていた。それが周りに座っているすべてのお客がそうだとしても。
「今日もお仕事お疲れ様でした」
まずテーブルに運ばれてきたのは、深い葡萄色が綺麗なワインだった。武が澪にグラスを向けて来たので、澪も同じく武にグラスを向けて二つのグラスは軽く接触する。するとチンっという高音がその場に響いた。
「武さんもお疲れ様でした。アメリカから帰ってきても仕事ばかりで大変ですね」
「いえいえ、そうでもないですよ。こうしてちゃんと自分の時間も出来ますしね」
そう言って優しく微笑む武。毎度の事、澪はその笑顔にとろけそうになっていた。それだけ武は魅力的で、誰が見ても素敵な大人の男性だった。そんな彼に自分は交際を申し込まれたんだ、と澪は改めて驚いていた。こんなチャンス、この先絶対にありえない。一生に一度のすごいチャンス。でもやはり澪はその答えを出せないでいた。
次々と運ばれてくる見たこともない料理。何が入っているのかも値段さえも分からない。でも口に入れるとその食材が上質という事だけは澪でも分かった。そして武の優しい声。それは自分がセレブにもなったような気分で、気持ちの良いものだったけれど、ふと澪は窓に映る自分の姿に気が付いた。
すべてが完璧の武と並ぶ澪。その姿は紗夜子や亜里沙とはまったく違う平凡な女性の姿だった。服だってバーゲンで買った安物の服。誰が見ても武とは合わないと思うだろう。そう思うと澪はなんだか武と並ぶのが恥かしくなってきた。こんな事なら少しでもいい服を着てくれば良かった。澪はそう思っていた。
(詩亜君に貰った服ならこのお店にも合うのかな)
詩亜からプレゼントされたクロトのワンピース。それはモデルのミハネでさえ欲しがる服だった。それを着たならきっとこの場でも少しも恥かしいと思わないだろうと澪は思っていた。
(だから詩亜君は服をプレゼントしてくれたのかな。私が恥かしくないように……)
モデルや業界人がたくさん集まるパーティ。そこにいた時間はほんの少しだったけれど、その為に詩亜は服を用意してくれた。
(違うよ。きっと私なんかが隣にいても恥かしくないようにしてくれただけだよね)
そう思ったけれど、澪はなんだか無性に詩亜に会いたくなってきた。目の前に憧れている武がいるというのに、澪は詩亜の顔が頭に浮かんでいた。
「澪さん?どうかしましたか?」
澪が上の空の様子だったのか、武が声を掛ける。だから澪はすぐにこちら側に意識を戻した。
「い、いえ。なんでもないです。あまりにも素敵なお店だから、ボーっとしちゃってて」
「そうでしょう。ここは僕が気に入っている店なんです。味はもちろんいいんですが、この雰囲気素敵ですよね」
きっとこれが武の当たり前なんだろう、澪はそう思っていた。だから澪は武の言葉に軽く頷いておいた。
澪が武と食事をしている同じ時間、詩亜は紗夜子の家に招かれていた。紗夜子の家は都内の一等地に立つ高層マンションの最上階。きっと値段にして一億はゆうに越すだろう。そんな場所に神宮寺の居住場所はあった。両親の話では、彼らはこういう場所を都内にいくつも持っているという。しかし詩亜も御堂の子息である。どんな豪華な場所に招かれようと驚きはしなかった。ただ、こんな場所を買うなんていかにもだな、と思っていた。
紗夜子は父が日本人で母親が英国人。だから紗夜子は日本離れな顔をしている。そんな三人を昔から知っている詩亜は、特に緊張する事なく、紗夜子のマンションのエントランスに入っていった。まるで高級なホテルを思わせるマンションのエントランスにはコンシエルジュが二人、緊張した顔で受付に座っていた。
(あいつならこれを見てどう思うんだろうな)
詩亜は豪華すぎるエントランスでエレベーターが降りてくるのを待ちながらそう思っていた。
(なんなの、ここは本当に日本?とか言い出しそうだな)
そう思うと詩亜の顔に笑みがこぼれた。しかしそれに気が付いたのか、すぐに顔を引き締める。
(俺は何を思っているんだか。あいつはもう傍にはいないのに)
そう思うと詩亜の心は急に寂しくなる。しかし、今の自分にはどうする事も出来ないし、これから紗夜子の家にいくというのに何て事を考えているんだ、と思っていた。
「やぁ、久しぶりだね、詩亜君。大きくなった」
エレベーターで最上階まで上がり、エレベーターから降りると、すぐに紗夜子の父である隆平(りゅうへい)が立っていた。歳のわりにはスタイリッシュで自分の父親とはだいぶ違うな、と詩亜は思った。きっと昔から苦労をせずにこの地位にいるのだろう。隆平の体からは余裕の雰囲気が出ていた。しかし、自分もどうせそうなんだろ、と詩亜は思った。
「しーちゃん、いらっしゃいー!」
詩亜が隆平に連れられて玄関に入っていくと、紗夜子が嬉しそうに飛んできた。紗夜子は食事会の時とは違い、TシャツにGパンというラフな格好をしている。それでもどちらも一般人では買うのが難しいブランドの服だった。――一応詩亜はモデルである。有名なブランドの服は見ただけで分かる。――紗夜子は根っからのお金持ちのお嬢様だった。
そして紗夜子の後ろから彼女の母親であるマリーが顔を出す。マリーは純粋な英国人の為、その顔は気品に溢れていた。
「いらっしゃい、詩亜さん」
もう日本にいるのが長い為か、マリーの日本語は立派なものだった。詩亜は彼女に向かって軽くお辞儀をする。
「紗夜子からは聞いていたけど、本当にカッコよくなったわね。これじゃあ私も惚れてしまいそうだわ」
そんな母親の冗談に紗夜子は赤い顔をして頬を膨らませる。その様子を見てマリーは嬉しそうに紗夜子の頭を撫でていた。
(愛されているな)
二人を見て詩亜はそう思っていた。紗夜子は何不自由なく過ごしている。地位も名誉も美しさも生まれたときから持っていた。それは一般人では努力なしでは一つも持つ事が出来ないものだった。
そう考えると澪の顔が頭の中に浮かぶ。あいつはバカみたいに男に貢いで、結局は捨てられた。自分の事を少しも満足していないで、特別な女を常に羨ましく思っている。それは紗夜子とはまったくの正反対だった。正反対だからこそ、詩亜は紗夜子を見ると澪を思い出してしまう。いくら頭の中から追い払おうとしても。澪は兄の恋人になるかもしれないのに。
(俺は神宮寺に入らなければいけないんだ。それが俺の運命なんだから)
そう思っても、心の中に空しさが残るだけだった。それだけ詩亜はこの世界にうんざりしていた。それでも兄には逆らえない。親を捨てる事は出来ない。それが詩亜だった。
「さ、お料理が冷めてしまうわ。はやくリビングに行きましょ」
そして神宮寺家族と共に詩亜も恐ろしいほど立派な神宮寺家のリビングに向かっていくのだった。
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