誰がための小夜曲


第3部 雪の降る夜に
【3】


 橙色の温かな光。魅惑の香りを漂わせる料理。賑やかな笑い声。それが御堂家で行われているクリスマスの『食事会』での風景だった。澪はその豪華な雰囲気に圧倒されつつ、御堂家の庭にある白いベンチに座りながらそれを見ていた。外は息が白くなるくらい寒かったけれど、澪の体はお酒が入っているせいか、その寒さをあまり感じていなかった。
(はぁ、疲れちゃった。話す相手もいないし、なんで私はここに呼ばれたんだろ)
 詩亜はあれからずっと紗夜子と話している。横を何気なく通った時に、幼い頃の話をしていたので、積もりに積もった話をしているのだろう。その中にはどう考えても入る事は出来なかった。御堂夫婦は澪に話かけてくれてはいたけれど、嘘を付いているという罪悪感から、あまり話したいとは思っていなかった。もちろん、お呼ばれされたお客の中にも澪が話せる相手はいるわけがない。
 だから澪はシャンパングラスを持って、御堂家の大きな庭に出ていた。
 御堂家の大きな庭には、まるで中世のお話の中に入ったような整った庭園や、季節外れだとゆうのにたくさんのバラの花が咲乱れていた。そこは、今日のために用意したのかと思えるくらいの季節外れの風景だった。周りの木々にはクリスマスらしくイルミネーションが夜を美しく飾っていた。澪はそんな庭の中央にある白いベンチに座っている。そこからは庭も家の中の人々も良く見えるとてもいい場所だった。
(あの二人が並ぶと、本当にお人形さんみたいだなぁ)
 澪はお酒で体が火照って気持ち良くなりながら、詩亜と紗夜子を見ていた。そして二人の美しさに溜息を付きながら、二人は本当に特別な人なんだなと思っていた。その様子を噂していたのは澪だけでなく、他のお客達や御堂夫婦までが口にしていた。
(私もあんな綺麗だったらな、この場にいても少しも恥かしくないのに)
 自分が場違いな場所にいる事は澪はとてもよく分かっていた。だから澪は一人で庭に出ている。きっと誰も澪がここに居ることは気が付いていないだろう。もしかしたら澪という存在がいること自体、この場に呼ばれているお客は気が付いていないのかもしれない。
(しょうがないよ。私はただのOLなんだから)
 そう考えるととても空しかった。とても寂しかった。だからもう帰ってしまいたかった。
「こんな所にいて、寒くないですか?」
 澪が色々な事で頭をいっぱいにしていると、そんな声が後ろから聞こえてきた。だから澪は声のする方にゆっくり振り向いた。お酒のせいか、少し頭がクラクラする。
「あ……」
 そこに立っていた人物。それは今までどこにも姿が見えなかった武だった。庭から見える御堂家の玄関の前には黒塗りの車が止まっているので、武は家に入らずそのまま澪のもとに来たのかもしれない。
「すみません。仕事がなかなか片付かなくて、こんな時間になってしまいました」
 澪がこの場に来てから、もう二時間は過ぎていた。普通なら大遅刻の武。しかし、澪は彼の登場に救世主がきたかのように喜んでいた。なぜなら武はこうして澪に話しかけてくれる。他の誰でもなく、一人になっている澪に。だから澪は目に涙が貯まりそうな気持ちを抑えて武を見つめる。
「いえいえ。武さんはお仕事がお忙しいんですもの。遅れてもしょうがないです」
 うそ。どうしてこんなに遅れたんですか、私を一人にして。そう言いたかった。でも言わなかった。
「そう言っていただけると嬉しいですが……。でもどうしてこんな所に一人でいるんですか?詩亜も来ているはずなんですが」
 武の口から詩亜の名前が出て、澪の心はまたほんの少し揺れた。でもすぐに澪は詩亜と紗夜子がいる方に顔を向ける。
「詩亜君は、えっと、紗夜子さんと一緒にいますよ」
 澪が紗夜子の名前を出すと、武は納得したように頷いた。
「あぁ、そうでした。僕が彼女をアメリカから呼んでいたんでした。すみません、こんな事なら仕事をはやめに切り上げるべきでした」
 少しの優しさ。それが寒い夜の澪の心に少し響いていた。きっと誰がそう言っても今の澪なら感動していたかもしれない。それだけ澪はこの場で寂しい思いをしていた。でもそれを口には出来ない。
「大丈夫ですよ。美味しいお料理にお酒、それに素敵な場所を楽しませてもらいましたので」
 それは本当の事だった。パーティに出された食事やお酒は本当にすばらしい物だった。澪が食べた事のない美味しいものばかりで。
 そう武と話していると、メイドのような女性が手にシャンパングラスを持ってこちらに歩いてきていた。それに武が気が付いたのか、グラスを彼女から受け取り、シャンパンに口をつけた。だから澪もまだ少し残っているシャンパンを口に流し込む。すると上品な甘さが口の中に広がった。
 寒い冬の空の下、澪と武は御堂家の庭のベンチに二人で座っていた。少し離れた所からパーティの楽しそうな声が聞こえてくる。
 何かを話さないと。そうしないと武は人が多くいる所に行ってしまう。澪はそう思っていた。もし武さえも部屋の中に行ってしまったらもうこの場に本当に一人になってしまう。それだけは嫌だった。
 でも澪はこの場であの話題以外は思いつかなかった。他に武に話す話題なんて頭のどこを探しても見つからなかった。だから澪はその話題を話し始める。
「紗夜子さんは武さんと詩亜君の古くからのお知り合いみたいですね。すごく綺麗な方でびっくりしました」
 すると武は手に持ったシャンパングラスを下ろして澪を見つめた。上品な眼鏡の奥の彼の瞳はいつみても美しい。
「そうなんです。彼女とは幼馴染で。神宮寺家とはプライベートでも仕事でも付き合いのある方々なんですよ。特に同じ歳の詩亜と紗夜子さんはとても仲が良かったんです」
「へぇ、そうなんですか」
 そっか、紗夜子さんは詩亜君と同じ歳なんだ、澪はそう心の中で呟いていた。ますますお似合いの二人。それにプライベートでも仕事でも付き合いがあるなら、彼らの関係は軽いものではないはず、澪はそう思っていた。
「そうだ、澪さん。すっかり忘れてて昨日お渡し出来なかったんですが、アメリカのお土産があるんですよ」
 澪が詩亜と紗夜子の事を考えていると、武が何かを思い出したように呟いた。
「え?お土産、ですか?」
「はい。ちょうど今日はクリスマスですし、クリスマスプレゼントでもいいかもしれませんね」
「は、はぁ」
 澪は武の言葉に曖昧な返事をしながら、武がスーツのポケットから何かを取り出すのをジッと見ていた。そこから出てきたのは薄いピンク色のリボンが巻きついた水色の小さな箱だった。武はそれを澪に手渡す。
「澪さんが気に入るといいのですが、どうぞ開けてみてください」
「は、はい」
 そう言われたので、澪はリボンをはずし、箱をゆっくりと開ける。するとそこにはまた箱が入っていた。でも外の箱とは違い、革のようなベルベットのような手触りの箱。
「え?これって……」
 その箱は女性が誰もが憧れるものが入っている入れ物だということは澪でもすぐに分かった。それにアメリカの土産と言っていたけれど、その箱のブランドは誰もが知っている有名なもので、澪の手は少し震える。
「た、武さん、これって……」
「澪さんが似合いそうなものを選んできたんですよ」
 澪は恐る恐る箱を開ける。するとそこには小さなダイヤが真ん中で光るプラチナの指輪が入っていた。小さいダイヤといっても、その輝きはとても美しく、その指輪が安物ではない事を現していた。
 だから澪は目を丸くする。
「こ、こんなすごいもの頂けませんよ!だ、駄目です。駄目ですよ、武さん!」
 ただ嘘の恋人を演じただけで、こんな高価なものをもらうなんて絶対にありえない。澪はそう思ってすぐに指輪ケースを閉じ、武に返そうとする。すると武がいきなりケースを持った澪の両手を握ってきた。武の手の温度が澪に伝わる。
「いいんですよ、澪さん。だって僕はこの指輪であなたに正式に交際を申し込もうと思っているんですから。だから澪さん、どうかこれを受け取って下さいませんか?」
 澪はそれを聞いて、頭を真っ白にするしか出来なかった。 

 なんでこんなものを自分が持っているんだろう。澪は手のひらに乗せている指輪ケースを眺めながらそう思っていた。
「返事はすぐじゃなくていいですよ。ゆっくり考えて下さい」
 それはまたいつもの武の微笑み。優しくて包み込んでくれそうな穏やかな声。それは手に届かないものだと思っていたのに、澪は武に交際を申し込まれてしまった。その事実を澪はまだ受け止められないでいる。
「武さん、やっと見つけた」
 澪はまだ呆然としていたけれど、澪と武の後ろからそんな声が聞こえてきたのでハッと顔を上げた。するとそこには紗夜子が立っていて、紗夜子は武に嬉しそうな笑顔を向けていた。紗夜子の後ろには詩亜が立っている。
(詩亜君……)
 澪は詩亜を横目で見ながら、この状況をどうしたらいいのかと思っていた。私は武さんに交際を申し込まれてしまった、んだと。
「誘ってくれたあなたが遅刻してどうするのよぉ」
 紗夜子は武にもとてもフレンドリーな感じだった。詩亜ともそうだったけど、武とも紗夜子は幼い時に多くの時間を一緒に過ごしたのだろう。
「すみません、紗夜子さん。仕事がどうしても終わらなくて。でも詩亜と色々話をしていたみたいなので、退屈はしなかったんじゃないですか?」
 しかし、武は紗夜子とは違い、澪と話すのと同じように彼女にも敬語だった。だからきっと武はそういう風に誰とでも接するんだなと澪は思っていた。
「えへへ。まあ、そうなんだけど。だって十年ぶりだもん。話したいことは沢山あるわ。それに、しーちゃんが雑誌の仕事をしていたのは知っていたけど、こんなにカッコよくなっているなんて反則よ。それなら私だってもっともっと可愛くしてきたのに」
 紗夜子は可愛らしく頬を膨らませていた。それは計算ではなく、本来の彼女がこういう風なんだろう。それが澪にはとても羨ましかった。しかし、羨んだところで、光を放っているような紗夜子の美しさはどうやっても真似出来ないと思っていた。
「紗夜子さんはそのままでも十分可愛らしいですよ。ねぇ、詩亜、そうですよね?」
 いきなりの武の言葉に詩亜は軽く驚く。しかしすぐに軽く頷いた。
「まあ、そうだな。昔と比べるとな」
 素っ気無い詩亜の言葉。それにも紗夜子は少し膨れていた。武はそんな二人の様子を見て軽く笑った。
「詩亜、彼女に対してそんな態度ではいけませんよ。彼女はあなたの将来の相手なんですから」
 それは武の何気ない言葉だった。しかし、澪がそれを聞き逃すはずもなく。
(……え?)
 澪は武の一言にとても驚く。そんな話、詩亜から聞いた事もないし、そういう素振りは少しも見たことがなかったから。
(詩亜君には許婚がいたの?そんなの全然知らない……)
 それなのに私は彼に……、そう思うと澪はすごく恥かしい気がしてきた。
「そうよー、私には優しくしておいたほうがいいわよ?しーちゃん。そうしないと私はワガママな奥さんになっちゃうんだから!」
 嬉しそうに飛び跳ねる紗夜子。顔は桃色に染まっていた。
「うるさい。それは親同士が勝手に決めた事だろ。俺には関係ない」
 詩亜は素っ気無くそう言ったが、紗夜子は詩亜の腕を掴み、二人は恋人同士という事を周りに見せ付けているようだった。
「もー、しーちゃんはいっつもそうなんだから。別に恥かしがる必要なんてどこにもないんだよぉ」
「別に恥かしがってない!」
 詩亜の強い言葉。そして詩亜は紗夜子の手を振り解こうとする。しかしそれを武が制した。
「詩亜、彼女を邪険にするものではないですよ。紗夜子さんは御堂にとって大切な方なのですから」
 それは澪や紗夜子には分からなかったけれど、詩亜にとっても最強な言葉だった。威圧的で恐ろしい。だから詩亜は紗夜子の振りほどこうとした手を止める。それを見て武は軽く頷いていた。
 その様子を澪は静かに見ていた。心の中はとても乱れていたけれど、それでも静かに見ていた。
 詩亜には相手がいた。それは澪にとって衝撃以外の何者でもなかった。たった数日一緒にいただけで、澪はどこかで詩亜の特別だと思っていたに違いない。でもそれが偽りだった。
(だから詩亜君は私のもとから簡単に消えてしまったのね。ただの遊びだったのね。そうよ、彼は私とは違う。特別な人なんだから、私みたいな平凡な女を捨てるのなんて簡単よ)
 これで詩亜を忘れなきゃいけない理由が出来た。たとえ彼とキスをしていたとしても、それは特別ではなく、ただの気まぐれ、遊びだったんだ、と澪は思わずにはいられなかった。
 澪は楽しそうに詩亜の腕を組む紗夜子を見ていた。二人は並ぶと本当にお人形みたいで、どこから見てもお似合いのカップルだった。でも自分は違う。たとえ着飾ったとしても、詩亜と並んで歩くには不釣合いに違いない。昨日のパーティでも皆がそう思っていたに違いない。そう思うと澪の胸は苦しくなってきた。ムカムカしてきた。だから口から勝手に言葉が出る。
「へぇ。詩亜君にこんな可愛い許婚さんがいたんだね。全然知らなかった」
 知りたくもなかった。もう帰りたかった。
「だからさっき紗夜子さんは私に向かってお姉さんって言ったんだね。やっと納得」
 きっと無理な笑顔を作っていただろう。でもそんな事、今の澪には関係なかった。そんな澪を見て、紗夜子は首を傾げる。
「だって澪さんは武さんの恋人なんでしょ?それなら私のお姉さんと同じ事ですもの。だからこれからは仲良くしましょ、澪さん」
 紗夜子は澪に向かって輝かんばかりの微笑を向けてくる。澪はそんな紗夜子が羨ましかった。でも絶対に真似は出来なかった。でも同じように笑っておいた。
「なぁ、兄貴。そろそろ嘘を付くのはやめろよ」
 それはぎこちない笑顔を紗夜子に向ける澪を見ていた詩亜の言葉だった。詩亜は厳しい顔をして武を見ていた。その声はいつもより荒々しい。
「澪はお前の恋人でもなんでもないだろ?こんな所に無理やり連れてきて、兄貴はなんとも思わないのかよ」
 詩亜はこれを言えば兄が動揺でもするんじゃないかと思っていたに違いない。しかし武の表情はいつものように少しも変わらない。ほんの少し不敵な笑みさえ浮かべていた。
「そうだね。いつまでも嘘をつきつけるわけにもいかないのは僕でも分かっているよ。だから僕はついさっき澪さんに正式に交際を申し込んだんだよ。それならいいんだろ?詩亜」
「は?正式に交際、だと?」
 詩亜は驚いた顔をしたけれど、すぐに澪が手に持っている指輪ケースを見つめた。そして詩亜は言葉をなくした。
「なんかよく分からないけど、武さんの相手は澪さんって事でいいんだよね?」
 紗夜子は会話の内容を理解していないようで、不思議な顔で皆を見つめていた。すると武が目を細くして微笑む。
「そうなれば、いいですけれど。ね、澪さん」
「そうですね。前向きに検討させて頂きます」
 澪はそうつい言ってしまった。言うしか出来なかった。

 澪は御堂家の大きな門を潜って、夜道を一人歩いていた。武には送っていくと言われたけれど、近くでタクシーを拾うので大丈夫、と澪は断っていた。それに、一人で考えたいと言った。意外にもその申し出に武は反対はせず、澪を一人で帰していた。だから澪は夜道を一人で歩いている。
(前向きに検討だなんて、私なんて事いっちゃったんだろ)
 それはつい口が滑って言ってしまった事だった。詩亜の事を知ってそうとう混乱していたのだろう。本当につい言ってしまっていた。
(なんか……大変な事しちゃったのかな、私……)
 澪の頭には美雪がすごい顔で怒っている姿が浮かんでいた。でも話さないわけにはいかない。だから澪は深い深い溜息をもらしていた。

 * * *

「これが兄貴が言っていた、澪は駄目という事か」
 もう食事会もお開きになり、片付けも掃除も終え綺麗になったリビングに詩亜と武はいた。両親はたくさんの人を相手にして疲れたのだろう。もうすでに寝室で眠りについている。
「だけどなんであいつなんだ。兄貴のような人間がなんで澪を選ぶんだよ」
 詩亜はリビングのソファーに座って仕事の資料を読んでいる武を見ていた。しかし、武は詩亜に顔を向けずに答える。
「彼女はとても素敵な女性だよ。父さんにも母さんにも気に入られている。それに君にもね。だから選んだだけだよ」
 武の答えに詩亜は怪訝な顔をした。
「親父とお袋に気に入られているから選んだだと?あいつの事を好きだから選んだんじゃないのかよ」
 好き?その言葉に詩亜の心は疼いた。しかし、武は顔色一つ変えない。そこにいたのはいつもの静かな兄だった。
「それはこれからそうなればいいだけの事だ。僕は澪さんの事をあまり知らない。でもこれから知って好きになる自信はあるよ。それに好きになってもらう自信もね」
 好きでもない女に交際を申し込む。それは兄である武の上手いやり方だな、と詩亜は思っていた。こんなこと、武ではないと出来ないと。自分の利益の事しか考えないで、他人の事は少しも考えない。それが詩亜には許せなかった。そんな事の為に俺は澪から離れたのかと。
 でも詩亜は知っていた。澪の心の中にも武がいることを。彼女は武を好いている。
「それに僕は彼女を幸せにする自信はあるよ。僕には地位も名誉もあるからね。それがお前にはあるのか?」
 それは挑戦ともいえる武の言葉だった。詩亜は一瞬反抗しようと思ったけれど、兄にぶつける言葉が見つからなかった。
(悔しい。でも兄貴の言っている事は正しい。兄貴はすべてを持っている。俺は不安定な地位しか持っていない)
 詩亜は一般的な人から見れば、モデルという普通では手の届かない場所についている。しかしそれも今だけの話で、将来を考えれば不安定だという事は明確だった。だからこそ、詩亜には紗夜子がいた。彼女が詩亜の地位を確かなものにしてくれる。
「紗夜子をアメリカから呼び戻したのも兄貴の作戦ってわけか」
 詩亜がそう言い放つと、武は手に持った仕事の資料を机に置き、詩亜の方に顔を向けた。
「お前にもそろそろ経営者としての自覚を持ってもらいたいからな。お前は将来、神宮寺家を継いでもらう事は昔から決まっていたはずだ。それにお前が神宮寺を継げば御堂の未来も確かになる。お前は父さんや母さんを悲しませたくないだろ?」
 そんなの知らない。俺にそんな事押し付けるな。そう言えたらどんなに楽か。詩亜はそう思っていた。
 男が生まれなかった神宮寺家に入る事はずっと昔から決まっていた事を詩亜は知っていた。しかし、それは昔の話で、今でもその話は継続されているとは紗夜子に会うまで忘れてしまっていた。
 でも詩亜は御堂の人間だ。兄に言われた通り、太い鎖から逃れる事は出来ないのだ。
「だからこれから紗夜子さんの事を大切にする事だ。今まで離れていたぶんな」
 そして武は立ち上がって、リビングから消えていった。しかし、詩亜はその場に立ち尽くしていた。
 兄の言葉は決定的だった。自分の未来は紗夜子と一緒に神宮寺を守る事。それ以外には残されてはいない。それから反れれば父も母も、御堂もどうなるかわからない。それだけ神宮寺と手を結ぶ事は大きかった。
 でもそう思うほどに一人の女性の顔が浮かぶ。健気で不幸ばっかり背負って、でも負けないように頑張っている。そんな女性の顔が。自分は彼女にキスをしてしまった。それだけ彼女を好きになっていたから。でもそんな彼女に紗夜子の存在を知られてしまった。きっと彼女は傷ついたはずだ。
 そう思うと詩亜の胸は苦しくなるばかりだった。
(澪、お前に会いたい。俺はお前を抱きしめたいよ)
 それでもその願いは叶うとは思えなかった。もう自分には彼女に触れる資格はないのだから。彼女をこれ以上不幸にしたくなかったから。
(なら兄貴に奪われるのを黙ってみているのか?そんなこと……冗談じゃない)
 それでも、詩亜にはどうする事もできなかった。詩亜には澪を幸せにする自信が少しもなかったから。足元に引かれたレールから逸れる事は出来なかったから。



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