誰がための小夜曲
第3部 雪の降る夜に
【2】
いつもの朝。いつもの通勤。いつもの会社。
それは少しも何も変わってなかった。でも澪の心にはポッカリと穴が空いている。武に今日の夜に家に呼ばれているというのに、澪の心の穴は少しも塞がる気配がしなかった。
「で、澪は一体どう思っているの?」
いつものお昼休み。澪は美雪にいままでの事をすべて話していた。どうして詩亜と一緒に住む事になったのか、どうして今日はポッカリと心に穴が空いているのかさえ。
はじめはもちろん美雪は澪の話を興味深々に聞いていた。自分が見つけた素敵なモデルと友達との同棲生活。それが美雪のツボに入らないわけがなかった。まるで良くやった友よ!と言いたげな顔で。でも澪が最後まで話すと、すっかり美雪の表情は変わってしまっていた。
「どうって?」
「そりゃ、シアのことだよ。好きなの?」
美雪の『好き』という言葉に澪は少し固まる。でもすぐに美雪に笑顔を向けた。
「……わかんないよ。でもね、今になって思うのは、彼なんかの傍にいたら、誰だって心奪われちゃうんじゃないかって事、かな」
詩亜は美しい。それに意外にもとても優しい人だった。そんな彼を嫌う女性がどこにいるんだろう。それに澪は詩亜とあまりに近くにいすぎてしまった。だから美雪に『好き』と言われても答えをはっきりと出す事が出来なかった。昨日、あんな事があったとしても。
澪の無理な笑顔を悟ったのか、美雪が心配そうな顔を澪に向ける。
「それなら私はこれ以上シアに近づかない方がいいと思う。だってシアは御堂の子息で、芸能人でもあるんだよ?そんな人と一緒にいたらいつ澪が世間に晒されるのか分からないし……、不幸になるだけだよ」
美雪の声はとても真剣だった。それだけ美雪は澪を心配していた。
「そう、だよね。そうかもしれない」
そう、詩亜はテレビに出ている芸能人なんだ。澪はそう思っていた。たとえ、駆け出しだとしても、もうすでに色々な所で注目されている。そんな人気の芸能人が誰かと交際しているという甘いネタにマスコミが飛びつかないわけがない。それはイコール、詩亜に迷惑をかけてしまう事だと澪はそう思っていた。自分が不幸になるだけならまだしも、澪は詩亜に迷惑は掛けたなくなかった。
「って、違うよ。だって詩亜君は別に私のこと……」
確信はまったくない。昨日の事を思い出すともしかしたら、という気持ちはあるけど、それはただの自分の驕りなのかもしれないという気持ちが強くなってしまう。だって詩亜は兄が迎えに来てから何も言わずに出て行ってしまった。それが何よりの証拠だった。自分には少しも未練がないと。未練?なんの未練なのよ。
「ならはやく忘れちゃいな。それがきっと澪のためだよ」
美雪は澪の冷たくなった手を握る。きっと昨日は寝ていないのだろう、澪の目の下のクマを見ながら。
「あとね、御堂武との事もどうにかした方がいいよ。あの人たちは私たちとはやっぱり違うしさ」
「うん、そうだよね」
それは分かってる。澪は十分に分かっていた。彼らは自分達とはまったく違った世界で生きている。澪は自分が場違いだという事も十分分かっていた。だから澪は美雪に向かって小さく頷いた。
「今日のお呼ばれが終わったら、もう会わないようにするね。それでいいよね?」
あとあのマンションから引っ越して、新しい生活をはじめればきっと気持ちもすっきりする。澪はそう思っていた。
「うんうん。また澪の為に合コン開いてあげるしさ。いい男見つけようよ」
「うん、ありがとう!」
美雪の優しさ。それは澪にとってとても嬉しかった。
(いい、男か……)
そう思うと詩亜と武の顔が澪の頭に浮かぶ。あの人たち以上にいい男っているんだろうか、そう澪は思っていたけど、もう考えちゃいけない、と顔を思いっきり横に振っていた。
* * *
(どうしてあの子はこうも男に縁がないのだろう)
美雪は仕事場のデスクでパソコンを操作しながらそう思っていた。
(聡史の時は男がどうしようもなかったからしょうがなかったし、それでも澪は少しは幸せに過ごしていた。でも、御堂の件はどういったらいいものか……)
普通のOLと御曹司、そしてその弟との出会い。それはまるで夢のような話だったけど、実際に澪の身に起きてしまった事だった。しかし、その組み合わせはどう考えても成立しないと美雪は思っていた。
(あんな人たちに遊ばれて捨てられたら、もう立ち直れなくなるよ。澪……)
美雪は本当に心配だった。友達の事が。でも彼女にはどうしてあげることも出来ない。ただ励ますか、慰めるしか。だから美雪は自分の無力さに落ち込む。
(幸せになってほしいのに。澪……)
美雪はそう願いながら小さな溜息を付く事しか出来なかった。
* * *
澪は会社が終わり、会社の前には武が寄越したと思われる黒塗りの車が止まっていた。てっきり武が迎えにきてくれるものだと思っていた澪は、スーツ姿の礼儀正しい運転手が迎えにきてとても驚いていた。
「すみません。武様は残った仕事を終えてから駆けつけるそうなので。先に青島様だけお送りするように言い付かっております」
運転手は澪にふかぶかとお辞儀をしたので、澪は一瞬たじろいだ。
「は、はあ」
だから澪はそんな間抜けな返事しか出来なかった。
「あと、途中でもうひとかたをお乗せしますので、よろしくお願いいたします」
初老の運転手は澪にもう一度頭を下げたので、澪も焦りながら一緒になって深く頭を下げていた。
「は、はい。よ、宜しくお願いいたします」
そして運転手が開けてくれたドアから澪は車に乗り込んだ。どこのメーカーの車なのか分からなかったけれど、ソファーのすわり心地が恐ろしいほど良くて、こんな車、一生のうちでもう乗ることもないだろうと思えるくらいだった。
(もう一人って誰だろ)
もしかしたら詩亜君?と澪は心臓がトンッと少し跳ね上がったような気がしていた。しかし、車が止まり、そこに立っていた人物に澪は目を丸くする。
「紗夜子様、お待たせ致しました」
礼儀正しい運転手は、車から降りてその人物にまた深くお辞儀をしていた。その様子を見てそこで待っていた人物は優しい微笑みを浮かべる。
(な、なななんて綺麗な人なの!)
澪が目を丸くした理由、それはその人物はとても美しい女性だったから。
紗夜子はフランス人形のような青い大きな瞳が特徴的で、まつげが恐ろしいほど整っていて綺麗に上を向いている。そして高めの鼻とぷっくりした唇が彼女の美しさを引き立てていた。きっと純粋な日本人ではないのだろう。どこか英国の匂いを漂わせているような気がしていた。それに背中に垂れた長髪はまるで蜜を塗ったような美しい色。着ている厚手の黒のコートも、シンプルなデザインだったけれどどこか上品に見える。きっと街で彼女とすれ違ったら必ず振り返ってしまうだろう。それだけ紗夜子は美しかった。
そして紗夜子が車に乗り込んでくる。澪はすぐに彼女が座る場所を開けると、紗夜子は澪に微笑んだ。天使のような笑みを。
「ありがと。えっと、あなたが澪さん?」
きっと運転手が澪の事を言ったのだろう。でもこんな綺麗な人に急に名前を呼ばれて澪はドキリとする。
「あ、はい。青島澪と申します」
彼女はカナリヤのような高いけれど心地よい声で澪に話しかける。それに澪は酔ってしまうようなそんな不思議な気分になっていた。なんて完璧な女性なんだろう。それでいて紗夜子はどこか幼さも見え隠れする。だからきっと澪より年下なんだ、と思わせた。
「私は神宮寺紗夜子(じんぐうじさやこ)。御堂家とは幼い頃からお付き合いさせてもらっているの。あなたは?」
「え?わ、私は……」
紗夜子の問いに澪は言葉を詰まらせた。
(私はなんていえばいいんだろ、武さんとは嘘の恋人だっただけだし、詩亜君とは……友達?)
澪が返事に困っていると、意外なことに声は車の運転席から聞こえてきた。
「澪様は武様の恋人でいらっしゃるんですよ」
「え?」
澪は運転手の言葉に目を丸くする。なんでこの人がそんな事知っているんだろうと。でも澪はすぐに武の顔が頭に浮かんだ。御堂家の車が見ず知らずの人を迎えにくるわけなんかない。きっと武が運転手に嘘を伝えたのだろう。それが澪には少し苦しかった。
「まあ、そうなの?へぇ、武さんにこんな可愛い彼女がいただなんて知らなかったわ」
『可愛らしい』それをこの口が言うか、なんて澪は思っていた。あなた以上に可愛い人なの知りませんよ、と。それだけ紗夜子は澪の目には輝いて見えていた。
亜里沙も澪から見れば美人だった。でも紗夜子の美しさはそれとはまったく違っている。亜里沙の美は作られて生まれたものだとしたら、紗夜子の美はきっと生まれた時に神様が与えた物。それは女性にとって喉から手が出るくらい欲しいものなんだろう。もちろん澪にとっても。しかしそれは一般人には決して与えられない特別な物なんだ、と澪は思っていた。
それに彼女は御堂家と昔から付き合いがあると言っていた。それはイコール、どこかのお金持ちのお嬢様なんだと表していた。だから澪は思う。あぁ、紗夜子は詩亜や武と同じく、特別な人間なんだと。
「じゃあ、あなたは私のお姉さんみたいなものね。宜しく、澪さん」
「え?あ、よ、宜しくね」
紗夜子の言葉に澪は困惑していたけれど、とりあえず今は笑っておこうと思っていた。いくら嘘の恋人と言っても、ここで彼女にバラす必要はない。
(お姉さんって……。紗夜子さんってそれだけ御堂家と深い繋がりがある人なのかな)
澪には紗夜子が誰なのかまったく分からなかったけれど、別に知る必要もないとそれ以上は考えなかった。なぜなら澪は今日が終わればもう御堂の人間とは関わらないと決めていたから。それが自分にとって一番いい方法だと思っていたからだった。
御堂家に着いた時、まずその庭の広さに澪はとても驚いた。自動で開く大きな門を車は潜り、驚くほど手入れされた広い庭へと澪達は入っていった。御堂の両親達は裕福な家庭で育ったという感じではなかったので、もしかしたら和風のこじんまりとした家なんじゃないかなーなんて思っていたけれど、その予想は見事に破られてしまった。まるでベルサイユ宮殿を小さくしたような白亜の家の作りに澪は目を丸くする。
(なによここ。本当に日本なの?)
屋敷の庭に面した窓は全て開けられ、中がよく見えるようになっている。澪は車から降り、まずその光景が目に入ってきた。外はとても寒かったけれど、部屋の中は橙色の暖かな光と、豪華な食事が並べられている。もちろんそれを御堂の母が用意しているわけでなく、忙しそうにメイドのような格好をした女性達が動き回っていた。
(何が身内の食事会よ。パーティそのものじゃない)
もうお客は何人か来ている様で、ワイングラスを手に雑談をしているようだった。少なくとも澪の視界には見たことのある人は一人もいなくて少し不安になる。
「やーやー、紗夜子ちゃん。久しぶりだねぇ」
そこに聞いた事のある声が聞こえてきていた。それは屋敷から出てくる武と詩亜の父である総一郎だった。総一郎は白髪交じりの髪とあまり手入れされていないような髭が特徴的な男性だった。昔はきっとすごく苦労したのだろう。手はゴツゴツと職人のような手をしていた。それにパーティ用のスーツはあまり似合ってはいない。きっとそこらへんを歩いていたら普通のおじさんに見えるだろう。しかし彼こそが御堂グループの長であるのだ。
「おじさま、お久しぶりです。お元気でしたか?」
澪と同じく車から降りた紗夜子は総一郎に笑顔で答えていた。それに総一郎は嬉しそうな声をあげる。
「いつ日本に戻ってきたんだね?知っていれば空港まで迎えにいったのに」
「ついさっきですよ、おじさま。武さんに今日お食事会があるって聞かされて急いで戻ってきたんです。ご招待、本当にありがとうございます」
澪はそう話す紗夜子の顔を覗き見た。その顔はとても嬉しそうでキラキラと輝いていた。本当に紗夜子は天使なんじゃない?と澪はそう思っていた。
「そうかそうか。そんなに喜んでくれるととても嬉しいよ。鈴子は中にいるから挨拶してやってくれ」
そう言って総一郎は紗夜子の肩にポンっと手を置いて頷いていた。そしてその視線は澪へと向けられる。
「おー、澪さんじゃないか。いらっしゃい」
「あ、え、えっと、お招きありがとうございます。今日はとても寒い夜ですね」
何いってんだよ自分、と澪は思っていたけれど、自分は紗夜子とは違う。彼女のように堂々とは振舞えない事くらい分かっていた。
「そうだね。予報では雪が降るかもしれないと言っていたから、今日はよいクリスマスになるかもしれないよ」
総一郎は紗夜子だけでなく、澪に対してもとても素敵な笑顔を向けてくれた。それに澪は少し胸を痛くする。自分はこんなにいい人に嘘を付いているのだと。
「ところで……、武はどこだい?一緒じゃなかったのかな?」
「あ、はい。武さんはお仕事を終えてからくるそうですよ」
「なるほど、そうか。まったくあいつの仕事熱心にも困ったものだよ」
総一郎がアハハと笑ったので、澪も一緒に軽く笑っておいた。とりあえず今のところは武の彼女として振舞っておかないと、と思いながら。
そして澪は紗夜子と総一郎と共に、御堂家の中へと入っていく。広いエントランスには有名な華道家の作品なんだろう、大きな生け花が飾られていた。洋風な家の造りに少し不釣合いだったけれど、それでも迫力があってとても素敵だった。
「しーちゃん!」
澪は生け花に見とれていると、隣にいた紗夜子がいきなり大きな声を上げた。だから澪も紗夜子の視線の先を見る。
(しー、ちゃん?)
するとそこには詩亜が気だるそうに壁に体を寄せて立っていた。腕は胸の前で組んでいる。しかし澪は、詩亜を見つけた事より、紗夜子が彼の事を『しーちゃん』と呼んだので驚いてしまった。
紗夜子は軽い足取りで詩亜に向かっていく。そんな彼女の頬がほんのり赤くなっていたのを澪は見逃さなかった。そして美男子と美少女が並ぶ。その様子を見て澪の心はチクッと痛んだ。恐ろしいほどよく似合うカップルがそこに出来上がったから。
「しーちゃん、久しぶりだね。元気だった?」
詩亜は紗夜子を見るなり、驚いた顔をする。しかしすぐにいつもの顔になった。
「紗夜、お前いつ戻ってきたんだよ」
その声はとても軽かった。その声を澪は知っていた。詩亜が楽しい時に発するトーン。
「ついさっきだよ。やー、久しぶりの日本はやっぱゴミゴミしてるねー」
「何言ってんだよ。お前もニューヨークっていう大都会にいたくせにさ」
二人は楽しそうに笑いあう。二人の間には長い時間が存在しているかのように。それが澪の心を騒がした。自分は詩亜の事を忘れなければいけないのに、驚くほど心が騒ぐ。それが澪にはとても嫌だった。
(忘れるって決めたじゃない。だったら詩亜君が誰といたって別にいいのよ。いいんだから)
そう心の中で決意していると、詩亜がこちらを向いている事に澪は気がついた。だから澪は出来るだけ平静を装うと思っていた。
「詩亜君、こんばんは」
そう言って澪は詩亜にぎこちない笑顔を向ける。そんな澪に詩亜は『おっす』と言ってまた視線を紗夜子に戻した事に澪の心は深く傷ついていた。でもそれでいいんだ、と澪は思っていたのだった。
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