誰がための小夜曲


第3部 雪の降る夜に
【1】


「すみません。澪さん。アメリカでの仕事が一段落してやっと戻ってくる事が出来ました。今までまったく連絡出来なくてすみません」
 冬の寒い夜にマンションの前で立ち話をしているわけにもいかず、澪は武をマンションの中に案内していた。もちろん詩亜も部屋の中にいる。しかし、詩亜はずっと不機嫌な顔をして、久しぶりに帰ってきた兄の顔を見ようとはしていなかった。
「相変わらず、お忙しそうですね。でも今日はどんな御用で来られたんでしょうか?」
 澪は武に紅茶を出しながら尋ねた。すると武はいつもの優しい笑顔を澪に向けた。そんな武の表情を見て、やはり澪の胸はドキンと跳ね上がる。その様子を詩亜は横目で見ていた。
「それはもちろん詩亜の件です。いくら澪さんのマンションが学校から近いといっても、さすがにこれ以上ご迷惑を掛けるわけにはいきません。私が詩亜の為に学校にもっと近いマンションを契約してきましたので、すぐにそちらに移動してもらいます」
「なっ」
(え?)
 武の言葉を聞いて、詩亜が目を丸くする。澪も詩亜ほどリアクションが大きくないものの、心臓がトクンと小さく音を立てていた。
「なに勝手に決めてるんだよ!俺はそんな事頼んだ覚えはないぞ!」
 詩亜は立ち上がってソファーに座っている武を見下ろした。その顔は明らかに怒っている。しかし、武はその様子を分かっていたかのように平然と紅茶に口を付けていた。
「詩亜が頼まなくても、僕は当然の事をしたまでです。あなたはどれだけ澪さんに迷惑をかければ気が済むんですか。彼女はあなたの男友達ではないんですよ。よく考えなさい」
 それは武のとても静かな言葉だった。しかしどこか威圧的で、詩亜はこれ以上何も言えないという表情をしていた。
 それを見て、武はやはり詩亜の兄である事を認識させられる。
「ということです、澪さん。短い期間でしたが、詩亜がお世話になりました。弟がご迷惑を掛けませんでしたか?」
「え?あ……はい。大丈夫です」
 迷惑どころか……と澪は心の中で思っていたけれど、口には出せなかった。だって毎日楽しかったし、貴重な経験も出来たし、それにこの心のもやもやも……。澪は車から降りてからまともに詩亜の事が見れてない事に気が付いた。もし武が来ていなかったら、今頃一体どうなってしまっていたんだろう、そう考えると顔が熱くなるのを澪は感じていた。
「それは良かった。じゃあ詩亜、もう時間も遅いのですぐに準備しなさい」
 時計の針はもう十一時を回っていた。こんな時間に荷物の移動をするの?と澪は思ったけれど、それを止める理由はどこにも見つからなかった。それがいきなりの事だとしても、澪が武と詩亜の間に入っていく事は決して出来なかった。
 そして、詩亜は少しの時間動かなかったけれど、しばらくして黙ってリビングを出て行った。
(詩亜君、この部屋を出て行くんだ)
 澪はそう考えると、寂しくなるのを感じていた。普通ではありえない同居だったけれど、それでも詩亜との生活を楽しむようになっていた。それなのに、詩亜は出て行ってしまう。きっとこれで詩亜との繋がりは消えてしまうだろう。澪はそう思っていた。
(みんな出て行く。聡史も詩亜君も……)
 それはとても悲しい事。でも詩亜は澪の彼氏でもなんでもない。だからこれ以上悲しんではいけないと澪は分かっていた。分かっていたんだけど。
「澪さん、本当にお世話になりました」
 考え込んで言葉がでない澪に、武が話しかけてきた。だから澪はハッと顔を上げる。
「い、いえ。当然の事をしたまでですよ」
 澪は無理やり笑顔を武に向けた。その顔はきっと少しも笑っていないだろうと澪は十分分かっていた。武がそれを指摘したどうしよう、と思ったけれど、武は話を続けてくれたので澪はホッとしていた。
「そう言っていただけると嬉しいです。そうだ、母があなたにお礼をしたいと言っています。もし宜しければ明日の夜、僕の実家にご招待させて頂けませんか?」
「……え?武さんのご実家に?」
「はい。明日はちょうどクリスマスです。身内で食事会を開こうと母が計画しているのですが、そこに澪さんも招待したらどうかという事になって。いかがですか?」
「そ、それは……」
 御堂家のクリスマス。それは覗いてみたいものではあったけれど、今のこの気持ちのまま、御堂の家に行くのはどうなんだろう、と澪は躊躇った。しかしそこに武はいつもの笑顔を澪に向ける。それはまるで言葉を強制させられるような魔法の表情。
「大丈夫ですよ。僕たち家族と、数人の知り合いしか来ませんので。明日、会社の終わる時間に迎えに行きますね」
「あ、は、はい」
 武の言葉に頷く事しか出来なくて、澪はしょうがなく軽く頷いておいた。それを見た武はうんうんと嬉しそうにしていた。
「用意出来たぞ、兄貴」
 そこに大きな紙袋を持った詩亜がリビングに入ってきた。だから澪は詩亜に顔を向けたけれど、詩亜は一瞬澪を見てまた視線をどこかにやってしまった。だから澪の胸はきつく締め付けられる。
「では澪さん、これで失礼しますね。明日は六時ごろ迎えに行きますので」
「わ、分かりました。楽しみにしています」
 そんな澪と武のやり取りに詩亜は怪訝な顔をしていたけれど、すぐにリビングから出て、玄関へ向かっていってしまった。
 それに続いて武と澪も玄関に向かい、武は一礼してそのまま外に出て行ってしまった。

 静かになったリビング。嵐のように去っていった詩亜。しかし、澪はこの部屋にまだ何かが残っているような気がしていた。賑やかな笑い声、冗談を言い合う楽しい会話。でもそれもただの残り香なだけで、部屋には澪しか存在していなかった。
「もとに戻っただけ、だよね」
 でも澪の目にはうっすら涙がたまっていた。

 * * *

「一体なんなんだよ。何を考えているんだよ、兄貴」
 それは武が用意していた運転手付きの黒塗りの車の中での会話。車のBGMはクラシック音楽が流れていて、とても優雅な雰囲気を醸し出していた。それを詩亜は前から好きではなかった。
「僕はすべての事を考えている、詩亜」
 それは澪と話していた武とは少し違った雰囲気を持つ武の姿だった。とても静かで冷たい低い声。
 そんな武を詩亜は知っていた。兄貴は人によって態度を変える。笑顔の優しい武も、弟に対する冷たい態度の武も、すべて御堂武であった。それは多重人格とかそういうものではない。ただ世の中を上手く渡っていく為の、彼の手だった。そんな兄を詩亜は昔から理解出来なかった。
「すべてだと?」
「そうだよ。僕はお前みたいに遊びまわっているわけじゃない。御堂の為に色々な事を考えている。詩亜、お前が誰と寝ようと構わない。だが、お前の将来はすでに決まっている事をそろそろ自覚してもらいたい。お前は御堂の人間なんだからな」
「なっ」
 誰と寝ようとだと?詩亜は武の言葉に体が熱くなるのを感じていた。
「なんだよ!なんでそんな事を兄貴に言われなきゃいけないんだよ!」
 詩亜は車内に響くほどの大きな声を出した。しかし武は怒っている詩亜をよそ目に静かに前を見ていた。
「それが『御堂』に生まれたお前の宿命なんだよ。いいか、詩亜。僕らは生まれながらに太い鎖で繋がれている。だから人より数倍も数十倍も恵まれていたとしても、結局は太い鎖からは逃げられない。人の上に立たなければいけないという宿命からね」
 それは詩亜が一番嫌な世界。皆が壁を作って、けっして誰も心を許さない世界。そんな世界から逃れられないと武は言う。それに詩亜は毒づいた。しかし、武は言葉を続ける。
「お前はどんな事をしても御堂の人間だ。それは決して変えられない。未来永劫、御堂として生きてもらう。分かったな詩亜」
 それはこの先、兄という御堂の長の命令を聞かなければいけないという事を指していた。社会に出れば自分には決して自由はないという事を。
 息苦しい。車の中がこんなにも息苦しいと感じたのは初めてだった。しかし、それを詩亜はどうする事も出来なかった。詩亜は御堂として生まれてきてしまったのだから。
「あぁ、それから。詩亜と澪さんの間に何があったか知らないが、彼女だけは駄目だよ」
 もう何も考えたくないと詩亜は思っていた。しかし、いきなり武の口から澪の名前が出てきて詩亜は目を丸くする。
「は?なんだよそれ。澪は兄貴の嘘の恋人だろ。なんでそんな事言われなきゃいけないんだよ」
「それはすぐに分かるよ。すぐにね」
 武はそれ以上の事は言わなかった。ただ少し兄が笑ったような気が詩亜にはしていた。
(一体なんなんだよ。こいつは何を考えているんだよ)
 やはり詩亜には兄の事など少しも分からない。いや、分かりたくないのかもしれない。だから詩亜は視線を兄から窓の外へと移した。
(……澪。俺はもう息が詰まりそうだよ)
 詩亜は心の中で澪を呼んだ。きっと澪なら今の詩亜に優しい言葉をかけてくれる。詩亜を和ませてくれる。
 しかし、そう思っても詩亜はあの場に留まる事は出来なかった。澪がいるあの場所に。なぜなら武に言われた『彼女はあなたの男友達ではない』という言葉が詩亜の頭にひっかかってしまったから。そう、澪は詩亜の友達ではない。彼女は兄の嘘の恋人だった。
 はじめはそれがすごく胸糞悪かった。嘘をついてまで俺たちに近づきたいのかと。でも実際はそうではなかった。だから詩亜は澪に興味を持ってしまった。でもそれだけだったはずなのに。
 それでも、詩亜は兄に逆らえなかった。いつだってそう、詩亜はすべてが正しい兄には決して逆らえない。逆らってはいけないような気がして。だから詩亜はやはり自分には御堂の血が流れているんだ、と思っていた。
(俺は結局、この世界から逃れられないのか?覚悟?そんなもの決められるはずがない。澪。澪、俺を助けてくれ。俺をここから救い出してくれ)
 しかし、その声は決して澪には届かず、詩亜の心は深い深い闇の中に飲まれていったのだった。



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