誰がための小夜曲
第2部 不思議な同居生活
【3】
(何で私は、武さんと詩亜君の事で揺れているのよ。勘違いにもほどがあるわ)
澪はリビングで楽しそうにゲームをする詩亜の後姿を見ながらそう思っていた。そして深く溜息をつく。
(違う。武さんはただ憧れているだけだし、詩亜君だってこんなカッコいい人が目の前にいれば誰だって変な気持ちになるものよ)
澪は長いソファーに横になり色々な悩みに悶々としながらクッションに顔を埋めた。そんな澪に気がついたのか、詩亜が澪に顔を向けてくる。
「ん?どうした?」
「え?な、なんでもないよ、って!」
澪がクッションから顔を上げた時、詩亜の顔の位置があまりに近くて驚いてしまった。しかし、彼の顔をこんなにまじまじと見たのははじめてで、澪は目を離せなくなってしまった。
(な、なんて綺麗なの。これって本当に作り物じゃないの?)
顔が綺麗なのは初めから分かっていた事だったけれど、近くで見ると肌の毛穴がまったく見えないことに気がつく。それはまるで化粧をしている肌のようだった。
「ん?俺の顔になんか付いてる?」
澪があまりにも詩亜の顔をジッと見ているため、詩亜は自分の顔に手を当てていた。
「ううん。詩亜君の顔って本当に綺麗だなーって思って。これなら誰でも見とれちゃうよね」
「あぁ、そういうことか。まあ、俺はこの顔、あんま好きじゃないけどな」
「え?そうなの?」
綺麗な顔が好きじゃない。それはとても意外な言葉だった。きっと誰しも詩亜のようになりたいだろうに、本人はそれを好きではないと言う。
「これは俺の商売道具だから否定はしないけど、この顔のおかげで色々大変だったりするんだよな」
「大変?あ、学校でモテすぎるーとか言うんでしょ?モテる人は辛いねー」
モテすぎて困る。それはいかにも完璧な人がいいそうな台詞だった。澪はそう言いながら笑っていると、詩亜が少し寂しい顔をしながら笑っていることに気がついた。
「まあ、それもあるけど、それだけじゃないよ」
「え?それだけじゃない?じゃあ、何があるの?」
綺麗な顔に生まれて嫌な事、そんな事は澪にはまったく想像が出来なかった。だから詩亜を不思議な顔で見る。
「俺がこの顔を持って、御堂家に生まれてきた。それがどれだけ世間の人間から違った目で見られるか、お前には分かるか?俺はな、出来ればお前のように普通に生まれたかったよ」
「え?」
詩亜が言った事、それがあまりにも意外すぎて澪は時が止まったような気がしていた。だから澪はソファーに寝転がっていた体を起こして、きちんと座りなおす。
「詩亜君?い、一体どうしたのよ」
澪は頭が混乱しそうだった。それは詩亜が突然変な事を言い出したからで、澪はどんな顔で詩亜を見たらいいか分からなくなってきていた。詩亜もそれ以上は何も言わないかのように床のカーペットの上で胡坐をかいて下を向いていた。
「詩亜君?」
だから澪は詩亜を呼びながら彼の顔を覗き込もうとした。すると突然、下を向いていた詩亜がソファーに座っている澪の腰の辺りに抱きついてきた。
「え?」
そして詩亜はそのまま澪のお腹に顔を埋める。
「ちょ、ちょっと詩亜君?」
いきなりの詩亜の行動に澪は動けなくなってしまった。だからしばらくの間二人でそのまま時間が止まったように固まっていた。そして先に話し始めたのは詩亜だった。
「澪、お前って毎日楽しそうだよな。俺はお前を知って、外の世界ってこんなに楽しいんだってはじめて知ったよ」
詩亜の声はいつもの自信たっぷりではなくて、どこか壊れそうな硝子のような声だった。
「俺の周りにいる奴はどこかトゲトゲしいんだ。それでいて仮面を被っている。兄貴がいい例だな。澪、お前は兄貴が何を思っているのか分かるか?」
「え?武さんが?」
いきなり武の名前が出てきて澪は驚いたけれど、すぐに澪は武の事を思い出していた。優しい笑顔に心地いい声。誰よりも素敵で、誰よりも目立つ存在。しかし、それしか思い出せなかった。それも無理はない。武は自分の事を一切澪には話してくれなかった。それに彼は詩亜の事で電話してきた以来、何の連絡もない。
(私って武さんの事、何も知らないかも……)
そう思うと澪の心はすごく痛んだ。
「分からないだろ?弟の俺でさえ分からないんだから、お前が分かるわけないよな」
それは意外な言葉だった。
「え?詩亜君も分からないの?」
「兄貴だけじゃないよ。お袋も親父も、周りにいる人たち皆が俺には分からない。みんな壁を体の周りに立てて暮らしているような気がしてならないんだよ。それに学校でも、俺は御堂として崇められる。この顔があるから、有名な金持ち学校に言ってもその中で一番の特別扱いだ。そういうのはもううんざりなんだよ。俺はそんなの少しも望んじゃいない」
「詩亜君……」
詩亜の言っている事は澪には理解しがたい世界だった。それは澪が特別な人間はいいな、と思って生きてきたからで、特別な世界の中にいる人間のことなんて考えた事なかったからだった。だから詩亜に言われてはじめて、上の人間の気持ちを知る。
「それで外に出てみれば、モデルの世界だってテレビの世界だってみんな壁を作りすぎている。だから世界はすべてそうやって回っているんじゃないかと思っていたくらいだ。特別な人間は周りに壁を作って、下の奴は上の人間に取り入ろうと必死になる。もうそういうのは見たくないんだよ」
澪は詩亜の悲しい言葉に、詩亜の体に手をまわす。そして軽く抱きしめた。
(そっか、詩亜君の周りはみんな謀略をはりめぐらせているのね。隙あれば上を蹴落として自分が上にのしあがろうとしている。それに詩亜君は気がついてしまった……)
その世界に慣れるべきなのか、慣れない方がいいのか、それは澪でも分からない。しかし、慣れなければ窒息してしまうだろうことは澪も感じていた。詩亜はきっと窒息寸前なのだろう。でも澪は言いたかった。世界はそれだけで出来ているわけじゃないと。
「詩亜君、あなたがそう思うのはきっと、あなたが小さな世界で生きてきたからだと思うよ。そりゃ、私の周りにだって日々争いや嘘なんかが充満している。それでも少なくとも私は友達や家族とは何も考えず接する事が出来るわ。向こうだってそんな風に接してきてくれるし」
世の中には悪い人もいればいい人もいる。でも、人なんて付き合ってみなければ決して分からない。しかし、詩亜の周りには特別すぎる人間しかいなかった。特別すぎる生まれに、小さい時から壁を作ってしまっていたのかもしれない。
「大丈夫だよ。詩亜君はまだ若いんだもん。あなたがそういう考えを持っているなら、これからきっと気兼ねなく話せる人とも出会えるだろうし、毎日も楽しくなると思うわ。その為にはもっともっと世界を広く持たなきゃね。世の中はあなたの周りにいる人たちばかりじゃないんだから」
もしかしたら変な事を言っているかもしれない、と澪は思っていたけれど、詩亜は澪の言葉を静かに聞いていた。
「私もあなたに壁を作ってしまっているかな?」
「いや、澪は違うよ。違うんだ。前に言った通り、お前は俺の周りにいる奴らと全然違う。澪と一緒にいるとすごく楽しいんだよ」
「そっか。それなら良かった」
澪は詩亜を特別な人間と思っていることは確か。それでも、彼と一緒にいるときは楽しいと感じる。武といる時みたいに緊張をすることもない。だから、詩亜に楽しいと言われた事をとても嬉しいと感じていた。しかしそれがどういう気持ちで嬉しいと感じているのか澪は分からなくて心が揺れる。
(それは武さんの弟だから思うこと?それか私自身が……。でも彼はまだ高校生なのよ)
四歳も年下。それが澪の心を詩亜の方に行かせなくしていた。それがたとえ、高校生に見えない詩亜であっても。
「澪、俺はお前と知り合えて良かったよ。俺の世界を広げてくれたのは、お前だな」
「そう?そう思ってもらえると嬉しいな。ありがと」
澪が詩亜に言った事。それがすべて合っているかは澪でも自信がなかった。でも彼はこうして痛みを知り、世界を知る。そして一歩前に進む事が出来ただろう。だから澪は詩亜とこうして話せてよかったと思っていた。
(詩亜君は将来、いい男になるだろうなぁ)
それは体の表面だけでなく、中身もいい男に育っていくだろうと澪は思っていた。
(まあ、その様子を私は見れないんだけど、ね)
澪はそう思いながら、心が少し寂しいと感じていたけれど、それは自分が詩亜に感情移入をしてしまった為だろうな、と思っていた。
それから美雪からメールが来たのはすぐの事だった。まだリビングには重い空気が流れていて、澪も詩亜もお互いがどうしたらいいかな、と思ったときに来たメールだったから、澪は救いの手だ、と美雪に感謝するようにメールを取りにいっていた。
「う、うわ!」
そして美雪から来たメールを見た瞬間、澪は大きな声を上げたので、詩亜が澪に顔を向けた。
「ん?どうした?」
「え?あ、うん、会社の友達の美雪からのメールなんだけど……」
澪は携帯を眺めながら元の位置であるテレビ前のソファーに戻ると、詩亜が携帯を覗く為に澪の隣に座ってきた。別に他人に見られても困る事はないメールだったので、澪は詩亜が携帯を覗いてきた事を少しも気にはしていなかった。
「ん?コンパのお知らせ?お前、コンパなんて行くんだ」
詩亜がそう言っていたけど、美雪のメールの衝撃的な内容に澪は呆然とするしか出来なかった。
「んで、今回のコンパには葉月亜里沙(はづきありさ)が来る事を謝らなくてはいけない……?なんじゃこりゃ」
詩亜は普通に美雪からのメールを読んでいたけれど、澪には美雪がどんな思いでこのメールを書いていたのかが目の前で見たかのように感じる事が出来た。きっと澪に対して何度も謝る様な気持ちで書いたに違いない。
「だから今回のコンパは飲み放題、食べ放題だと思って来てね……は?一体何の話なんだ?」
詩亜はメールを読みながらさっぱり分からないという顔をしていたけれど、澪はそれどころではなく、どん底に落ちたような表情でずっと携帯を眺めていた。
「なあ、澪。意味が分からないんだけど、一体なんでそんな顔をしているんだ?」
「それは最悪な状況になったからよ」
「最悪な状況?この葉月とかいうのが来る事になったということか?」
「そう」
葉月亜里沙、それは澪や美雪にとって最悪な女性だった。
「この子はねすんごい美人なの。女の私から見ても、超美人!と思えるわ」
「すごい美人?あぁ、その女が来ると他の女が目立たなくなるってやつか?」
それだけならどんなにいいか、澪は詩亜の言葉を聞きながら思っていた。
「亜里沙はね、自分が中心に地球は回っているって思っている子なの。だからどんな場にいっても、自分が一番じゃなきゃ駄目。男はみんな自分を好きじゃなきゃ気がすまない。だから彼女とコンパに行くと、男はみんな彼女だけを見ちゃうのよ」
澪はそこで深く溜息を付いた。過去、彼女のせいでどれだけ惨めな思いをしたか。
「でもね、亜里沙はすごく美人、男の人が彼女に目がいってしまうのが私でも分かるの。彼女もそれをすごく分かっているみたいだから、コンパの時の服装なんて、ほんと、見世物みたいよ」
「へぇ、そりゃそのコンパは男とは出会えないと言われたようなもんだな」
そんな事を詩亜は思いながら、亜里沙は留美と同じような人間か、と思っていた。
「そうなのよ……。せっかく美雪が私の傷を癒してくれる為に企画してくれたコンパだったのに……」
亜里沙は美雪の友達の知り合いで、友達が誘ってしまったということだった。だから美雪も断れなくてしょうがなく、という流れらしい。だから澪は美雪を決して恨む事は出来ないが、同じコンパにくる亜里沙を恨みたかった。
「あぁ、今回のコンパはお前の彼氏探しの場だったのか」
「え……?あ……」
亜里沙の件で動揺しすぎていた澪は、つい言葉を滑らせてしまっていた。しかし、感のいい詩亜はもう気がついているだろう。彼氏の為にこんないいマンションまで借りているのに、その彼氏の気配がここにはしない事がどういうことなのか。それに、彼氏がいれば、詩亜のような男性を家に泊まらせたりはしない。
「やっぱりお前ってすぐ顔に出るよなー。バカ正直なのか?まあ、今回のコンパは残念ということで、飲み放題で楽しんでおいで」
「……むぅぅ、意地悪ぅ」
亜里沙がいるコンパで、どうやって楽しめばいいのよ、という顔を澪は詩亜に向けていたけれど、詩亜はそれを楽しんでいるようだった。だから澪は口をプクッと膨らませて拗ねる。
「うは、なんだその顔は。お前って変な奴。そんなんじゃその葉月って奴がいなくて彼氏できねーぞ」
「もう!ほっておいてよー!詩亜君のバカー!」
澪は詩亜から顔を背けて怒っていたけれど、それを見ている詩亜はとても楽しそうだった。そして長い間、詩亜の笑い声がリビングに響いていた。
* * *
(あんなに笑ったのは何年ぶりだろうな)
詩亜は布団の中に入りながら、暗闇に慣れた目で天井を眺めていた。
澪といるのは楽しい。家では絶対にないのに、ここではあんな風に笑う事が出来る。それはとても気持ちが良いことだった。
(だけど、なんであいつにあんな事を話してしまったんだろう……)
詩亜はあんな事を澪に言うつもりはなかった。あれは詩亜がずっと心に溜めていた闇。誰かにいってもきっと分かってもらえない、もしくは軽蔑されるだろうとずっと思っていた。それなのに、澪が自分の顔の事を言ってきて、口が勝手に話し始めてしまっていた。
でも、それを詩亜は後悔はしていない。澪は詩亜の言葉をきちんと受け止めてくれて、それに答えてくれた。もしかしたら、詩亜は澪なら話を聞いてくれる、と思っていたのかもしれない。それが詩亜にとってどんなに嬉しい事だったか、言葉では言い表せないくらいだった。
(エイジがあんな事言うから……)
エイジは澪を見て『お前ってこういうのがタイプだったんだ。すげー、意外だな』と言った。それはエイジにとっては何も考えずにいった言葉なんだろう。彼はそういう人間だった。自分がモデルとして上に立っている事も分かっているし、どんな女でも落とせるという自信があるいうことも。だから澪をエイジに会わせるとああいう事になるのではないかということが、詩亜には分かっていた。それに自分は『そんなわけないじゃん』と返すつもりだった。しかし、実際にエイジに澪の事を言われて、詩亜の心はとても揺れてしまい、思っていた事と違う言葉を言ってしまっていた。
(俺はあの時、なんでお前にそんな事を言われなきゃいけないんだ、と確かに思った。思ってしまったんだ)
詩亜は鈍感な男ではない。だからそれがどういうことをさすのか十分分かっていた。だから詩亜は寝たまま自分の顔に両手を当てた。
(違う。あいつはただ俺の周りにいなかった女だから、珍しいだけだ。あいつは美人でもないし、金持ちでもない。それにあいつは……)
詩亜の頭に武の顔が浮かぶ。完璧な笑顔が。
(くそっ。俺は自分の事がさっぱり分からないよ)
詩亜の心はとても揺れていた。でもそれはどうする事も出来なくて、明け方まで悶々と考える事になってしまった。
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