誰がための小夜曲
第2部 不思議な同居生活
【2】
小さめの片手鍋に水を注いでIHクッキングヒーターの上に乗せ、沸騰したら味噌を溶いてワカメを入れる。そしてフライパンにベーコンと卵を二つ落として弱火でゆっくり焼く。すると、炊飯器から音楽が流れてきてそれがご飯が炊ける合図だった。
「朝ご飯をちゃんとつくるのなんてどれくらいぶりだろ」
一人なら別に家で朝ご飯なんて作らない。途中のコンビニでパンを一個買ってそれだけで済ませていた。しかし、今日からは家にもう一人住人がいる。だから澪はいつもより早く起きて朝ご飯の準備をしていた。
「んー、なんかいい匂いがするなぁ」
そこに、まだ眠い目をしている詩亜がリビングに入ってきた。
「あ、詩亜君、おはよ」
「おーはよー。何?朝ご飯作ってくれてんの?」
「うん。あ、もしかして朝は食べない派だった?」
詩亜は上に伸びをしながら、大きくあくびをする。
「んー、家だとどうせどっかのシェフが作ったーといかいうのが出てくるから興味なかったけど、澪が作った朝ご飯なら食べるよ」
そしてリビングの食卓に座ってテレビのリモコンをオンにしていた。
「そ。じゃあ準備するね」
有名なレストランのシェフが作った朝食は食べないけど、自分の朝食は食べてくれる。それは澪にとってとても嬉しい言葉だった。
「あー、そういえば今日から開始だったっけ」
「ん?」
それは澪がキッチンからリビングに朝食を運んでいる時だった。詩亜がテレビを見ながらそう呟く。
「何が開始なの?」
「あれ」
「え?」
詩亜はテレビの方を指差したので、澪はその方向に顔を向けた。
「う、うわ!」
詩亜が指を差していたのはテレビで、その画面には澪の見たことのある顔が映っていた。だから澪は目を丸くする。
「あれ、あれって詩亜君じゃない?詩亜君でしょ?」
テレビに映っていた人物、それは紛れもなく詩亜で、小さなデジカメを片手に見たこともないような顔を視聴者に向けていた。
「そうだよ。今日からこのCMが流れるって言っていていたんだよな。すっかり忘れてた」
CMだからほんの一瞬で終わってしまった。でも澪は目の前に座っている詩亜を見ながらまだ頭に残っているCMを思い出し目をパチクリとさせていた。
「こ、ここに座っている詩亜君が、テレビに映っていた。す、すごい。すごいよ」
目の前の詩亜は安いジャージ姿だったけれど、テレビに映っていた詩亜はCMの雰囲気なのか、メイクや衣装のせいなのか、まったくの別人のようで本当に美少年だった。
「当たり前じゃん。俺はああいう仕事しているだし、テレビに出てもおかしくはない」
「で、でも、そんなすごい人が自分の目の前にいるだなんてありえないよぉ」
誰が見ても興奮しているように見える澪。しかし、そんな様子には慣れているのか、詩亜は澪が用意した朝食を食べ初めていた。
「ほら、お前もはやく食っちゃえよ。会社の時間は大丈夫なのか?」
「え?あ!だ、駄目!駄目駄目!」
時計はもう7時半を差していた。澪は8時には家を出ないと会社に間に合わない。
「ご、ごめん。後は自分でやって。キッチンに色々用意してあるから」
「はいはい」
そして澪は会社に行く準備をはじめる為に、急いで寝室まで走っていった。そしてクローゼットから適当に服を取り出して着替える。するとリビングから詩亜の声が聞こえてきた。
「おーい、澪ー、お前の分まで食べていいかー?」
「あーーー!食べちゃって!全部食べちゃってー!」
着替えて、髪をセットして、化粧をする。それがはたして三十分で終わるのかどうかわからなかったけど、どう考えても朝食を食べている時間はなくて、詩亜が澪の分まで食べたいと言ったのですべてをお願いする事にした。
「じゃ、じゃあ、戸締りとかお願いね。う、うわぁ。遅刻するー!」
かなり雑だったけれど、一応は八時が過ぎる前にすべて準備をする事が出来た。まだ頭のどこかにCMの中の詩亜の姿が残っていたけど、今はそれを考えている暇はないと、澪はあとは全部詩亜に任せる事にして家を出ることにした。
「いってらっしゃーい。気をつけろよー」
そんな詩亜の声が澪に届いたかは微妙な所だったけど、澪は急いでいつもの道を歩いていった。
* * *
「五月蝿い女だなぁ」
詩亜は澪が勢い良く出て行って開いたままになっているリビングの扉を見ながら、2個目のベーコンエッグを口に運んでいた。いい具合に半熟の黄身が口に広がる。
「でも、賑やかな朝か、そういうのも悪くないな」
詩亜の家では絶対にありえない澪の家での朝の風景。そんな戦争のような賑やかさがおかしくて、詩亜は穏やかに何度も笑っていた。
* * *
いつもより早い速度歩いて駅についた澪。だからもう遅刻はしない時間になっていて、ホッと胸を撫で下ろした。そして、いつもと同じ時間の電車に乗り込んだ。ちょうど通勤ラッシュの時間の為、たくさんの人たちが電車の中に詰め込まれる。
(ま、間に合ったぁ。良かった……)
会社がある駅までの乗車時間はだいたい四十分くらい。それは少し長い時間だったけれど、もう二年ほど通っている毎日の道のりにすっかり体は慣れていた。だから澪は鞄からいつもものようにiPodを取り出して聞き始める。
(ん?あれは……)
大好きなバンドの音楽がイヤホンから聞こえてきて、心地よくなってきた頃、澪の目に車内広告が入ってきた。いつもならそれを気にする事なく音楽に聞き入る所だったけれど、その広告に詩亜の姿があって、澪は再び目を丸くしていた。
(う、うわぁ、すごいなぁ)
その広告は朝に見たデジカメの広告ではなく、男性ファッション雑誌の広告だった。詩亜はそんな雑誌の表紙を飾ってしまうくらいのモデルだと澪は知り、なんてすごい人なんだろうと改めて思っていた。
「みてみて、あれシアじゃない?朝、彼の新しいCM見たんだよねー」
そしてどこからか聞こえてくる女性の声。それは澪とは少し離れた所にいる女子学生の声だった。満員電車の中で友達と二人、楽しそうに話している。澪は思わず『シア』の名前が聞こえてきたので、イヤホンを片方外して彼女達の声に耳を澄ました。
「あ、私も見た見た!超カッコよかったよね」
「うんうん、カッコよかったー。シアって顔は綺麗だし背は高いし、完璧だよねぇ」
「ほんとにー!それもシアの家って超金持ちらしいよ。なんか完璧な人間ってどこまでも完璧なんだなーって思っちゃう」
そんな女子高生同士の話を聞いて、澪は『私はその人の知り合いですよー』と少し鼻が高いような気がしていた。でももちろんそんな事他の人になんか言えない。
「あれで私たちと同じ歳でしょ?絶対詐欺だよね」
「あー、確か高三だっけ。でもさ、彼が同じ学校にいても絶対私たち見向きもされなくない?」
「まあ、そうかもね。話しかけても無視されるのがオチだろうし、こうしてみているのが一番いっか」
「そうそう。そういうこと」
そこで女子高生達の詩亜の会話は終わった。だから澪は再びイヤホンを両方つけて音楽を聴き始めた。
(私って彼と普通に接しているけど、それってかなり恐れ多い事なのかもしれないなぁ)
詩亜の事を話していた女子高生達は、詩亜が近くにいても見向きもされないだろうと話していた。それは澪もすごく同意する所だった。
澪は詩亜とは武を通して知り合った。だから初めから別に緊張することなく、もちろん特別だとは思ったけど、それを気にする事無く普通に接している。それも一度言い争いもしたりして。しかし、詩亜はこうして誰もが目にする広告に載ってしまうほどの有名人で、それも御堂グループの血を持っていた。
(それってもしかして、武さんよりもすごい人って事なのかな……)
もちろん武も驚くほどの立派で有名な人である。しかし、テレビにまで出てしまう詩亜はそれ以上に体にオーラを纏った人なのではないかと澪は思うようになっていた。
(でも一緒に暮らしているんだし、今更態度を変えたら詩亜君が変に思うよね)
だからきっとこれからも詩亜に対する澪の態度は変わることはないだろう。
(ま、いっか。どうせ冬休みが終わる時までなんだし)
それならこの特別な生活をもっと楽しもうと澪は思っていた。
(そういえば、詩亜君はクリスマスはどうするんだろうな。……って、あんなすごい人がビックイベントに一人なわけないか)
そう思いながら澪は声に出さないように心の中で笑っていた。そして今年のクリスマスはどうしようかな、なんてことを考えながら会社に向かっていった。
その日一日は何事もなく過ぎていった。美雪からはもう少しでコンパのメンバー揃うから楽しみにしていてねと言われ、本当にクリスマス前に男を紹介してくれるつもりなんだ、と澪は驚いたりしていた。
美雪に詩亜との事を話すかどうかはすごく悩んだ。別に彼と暮らしている事は秘密にすることでもないし、後ろめたい事もない。でもなんでだか正直にいえなくて、今回も武の時と同様に、全部終わってから話そうと澪は決めた。
(ごめんね、美雪)
たぶん彼女なら、詩亜と一緒に暮らしているの、と言えば家まで着いて来るだろう。しかし、澪は詩亜は家に友達を連れてこないで、といったので、それは絶対に出来なかった。だから余計に美雪にこのことを言えなかったのかもしれない。
そして仕事が終わり、帰りは特に何も用事がないので、澪はいつものように駅前にスーパーで夕飯の買い物をして家に帰っていった。
(ブリが安かったなぁ。ブリ大根でも作っちゃお)
詩亜は好き嫌いはないと言っていた。そういう人の為に料理を作るのはとても楽しい。作ったものを全部食べてくれる、これほど作り手が喜ぶことはないだろう。だから澪は一日の仕事が終わって体は疲れていても、夕ご飯を作るのをワクワクしていた。
(それもこれも、半月くらいだから出来るんだろうなぁ)
これが毎日、一生約束されている事だったら、澪はこんなに料理を作るのをワクワクする?と言われれば首を傾げるかもしれないな、と思っていた。それでも今は、急に出来た同居人の為に腕を振るおうと思っていた。
「ん?あれ?マンションの前にいるのって……」
今の時間はまだ八時前で、澪は詩亜が帰ってくる十時まで部屋でゆっくりしてようと思っていた。しかし、マンションの前に詩亜らしき学生が立っている事に澪は気がつく。だから澪は声を掛けた。
「詩亜君?」
澪の声に、マンションの前に立つ人物が澪のほうに顔を向けた。
「お、澪。おかえり」
それは紛れもなく詩亜だった。詩亜はマンションの前で、大きな紙袋をいつくか持って立っている。
「ただいまって、あれ?詩亜君って十時頃帰ってくるんじゃなかったっけ?」
「あぁ、ちょっと早めに終わってさ。連絡すれば良かったな」
「ううん、それは別にいいけど。でも、こんな所で何をやっているの?」
澪は詩亜に鍵をきちんと渡している。だからこんなマンションの前の寒い所で一体何をやっているのか不思議だった。
「あぁ、知り合いに荷物を運んでもらっていてさ。お、来た来た」
「え?」
詩亜は澪に向けていた顔を遠くに向けたので、澪も彼が顔を向けたほうを見る。すると、男性が手にいくつかの紙袋を持って歩いてきていた。その奥のほうには大きめの車も見える。
「エイジ、ありがとな。ここでいいよ」
「おぉ、お安い御用だ。お前には色々借りもあるしなー」
澪は詩亜がエイジと呼んだ人物をジッとみていた。それは澪がエイジをどこかで見たことあるからで、彼も詩亜と同様にとても綺麗な顔をしていたからだった。
(な、なんなのよ、この二ショットは)
詩亜とエイジに共通していたもの、それは二人とも綺麗な顔を持っていて、とても背が高いということだった。エイジは全身真っ黒な服に、真っ黒で少しバサバサな髪の毛がすごくワイルド。
「で、これは誰?」
エイジは自分の事をジッと見ている澪を怪訝な顔で指差した。だから澪は急いで目線をエイジから逸らした。
「こいつは澪。俺、こいつの家にやっかいになってんだ。澪、これはエイジ。俺のモデル仲間だよ」
「あ、そ、そうなんだ。こ、こんばんは」
澪は詩亜にエイジを紹介されて深く頭を下げた。するとエイジから軽い笑い声が聞こえてきたのを澪は聞き逃さなかった。だから澪の体はお辞儀をしたまま止まる。
「へぇ、お前ってこういうのがタイプだったんだ。すげー、意外だな」
それは明らかに澪を蔑むような言い方だった。
(あぁ、この人も特別な人なのね……)
澪は武に会って、そして詩亜に会って、特別な人たちが一般人とはまったく違うということを痛感した。だからこうやって下に見られることに慣れたつもりだったけれど、それでもやっぱり体に鋭い何かが突き刺さる気はしていた。でももちろん、反論なんてしないし、する気もなかった。しかし、澪は顔を上げると、前に詩亜が立っていて驚く。
「それが何か悪いか?お前みたいに何股もしてるよりマシだろ?」
(え?)
それはまったく予想していなかった詩亜の発言だったから澪は驚いてしまった。だから澪は詩亜の後ろ姿を見つめる。
「あー、痛いとこ突かれたな。そうだよな、シアは真面目なおぼっちゃんだしな」
「うるせーよ。さ、もう帰れ帰れ。あんま長くいると、車、駐禁されるぞ」
「はいはい。じゃまたスタジオでな。そっちの彼女も、まったねー」
そしてエイジは軽く手を振りながら歩いてきた方向に戻っていってそのまま消えていった。
マンションの前には澪と詩亜、そしてたくさんの紙袋が残されていた。紙袋の中にはたくさんの服などが入っている。
「さぁ、戻ろうぜ。腹減っちゃったよ」
「あ、う、うん」
そして詩亜は制服のポケットから鍵を取り出してどんどんとマンションの中へ入っていったので、澪も彼に続いてマンションの中に入っていった。
(……あれはきっと、私を助けてくれただけだよね)
エイジは澪と詩亜が一緒に暮らしているのは、二人が付き合っているのだと勘違いしていた。それも澪の事を見て蔑みながら。それを詩亜は絶対に否定するだろうと澪は思っていた。それなのに詩亜はエイジに向かって否定するどころか、そのまま受け入れてしまった。だから澪の心は揺れる。
(……そんなわけ絶対ない。彼が私を特別な目で見るなんて。きっと詩亜君は優しいだけだよ)
女の勘違いは怖い。それは詩亜にも言われていた。女は特別な人を見るとその人物に取り入ろうとする。だから澪は詩亜が自分に好意を持っているなんて思ってはいけないと思っていた。だからもちろん、詩亜にどうしてあんなことを言ったのかと聞くことも出来ない。
(だって、また嫌な顔をされたくないもの……)
澪はそう思いながら、、ゆっくりとエレベーターがある場所に向かっていった。
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