誰がための小夜曲
第1部 始まりは別れの時から
【4】
詩亜の朝はいつも遅かった。
それは仕事で遅く帰ってくるのが原因でもあったけれど、学校という集団行動の場がどうしても好きになれない詩亜は、朝早くに起きてそのまま学校に行こうという気にまったくなれなかった。
それでも高校上がるまでは、無理やり体を起こして家からかなり遠い学校に行っていた。きっと彼にはそれしかなかったからだろう。しかし、今は学校に行くという事以外にモデルという仕事がある。だからそれを理由に、学校を遅刻していったり、一日まるまる休んでしまうという日が続いていた。
「ふぁあ。めんどくさいな」
しかし今日はいつもより早くに家を出ていた。なぜなら、昨日の夜に担任の先生から携帯に電話があり、今日は必ず来いと言われたからだった。だから詩亜は、もう帰りたいという気持ちを抑えながら、重い足取りで校門を入っていった。
細い体にブレザーとチェックのネクタイ、そこにお決まりのようにチェック柄のマフラーをゆったりと巻いている詩亜は、その完璧な容姿に周りの生徒の中でかなり浮いていた。そんな彼を見つけて周りの女学生達が騒いでいたが、詩亜はそれをまったく気にしていなかった。
学校の敷地に入った詩亜は、すぐに顔を上げる。すると白くて大きな建物がすぐに目に入ってきた。
(いつ見ても嫌味な建物だな)
宮殿か城の一部を思わせる白亜の建物。それが詩亜が通っている高校の校舎だった。
(なんでこんな所に俺は通っているんだろな)
そこは巷でとても有名なお金持ち学校で、一般人は決して足を踏み入れる事の出来ない場所。だから詩亜の同級生は、どこかの財閥の子息やお嬢様、政治家の孫、大きな会社の社長を親に持つ子など、かなり特別な人間が揃っていた。
もちろんその中にいる詩亜も特別な人間。ずっと首席だった兄を持つ詩亜は美しい容姿もあってか、どこへ行ってもチヤホヤされた。それが当たり前だと思っていた。
しかし、いつからだっただろう。この世界に違和感を感じるようになってしまったのは。
「お、御堂君。今日はきちんと来てくれたね」
教室に向かっていた詩亜の前に、いかにも真面目そうな眼鏡の教師が立っていた。彼は詩亜を見ながらニコニコと笑っている。
「センセに言われましたからね。で、何です?何かありました?」
この学校は基本は自由だった。制服さえ着ていれば、髪がどんな色でも、どんな物を持っていようと、通学が車であっても。それに遅刻をしても別に怒られはしない。それはきっと、教師の方が生徒達の親を怖がっているからだろうと詩亜は思っていた。
しかし、さすがにモデルの仕事をすると告げた時は、先生は渋い顔をしていた。でもそれは、高校生が仕事をするのは良くない、という理由ではなく、詩亜の成績が落ちるのを先生は恐れていたようだった。
「御堂君は成績もいつもトップクラス。しかしながら、授業出席日数が少なすぎるんだよ。さすがにそれでは他の生徒に示しがつかなくてね……」
詩亜の担任の先生は少し口ごもるように話していた。詩亜はその話し方がとても嫌いだった。
「じゃあ、俺が学校を辞めればいいんですか?」
「い、いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
「じゃあ、何なんです?」
詩亜は目の前の先生の半分以下の若造だろう。しかし、そんな若造を前に、先生は言葉を選びながら話しているようだった。その姿に詩亜は溜息を付きたくなっていた。
「僕は君にこういう提案をしたい。君の出席日数は確かに少ないんだけれど、冬休みに少しだけ補習を受けてくれれば、足りない日数をそれで埋めようと思うんだ。どうだろう?」
「は?冬休みに?」
詩亜はあからさまに嫌な顔をする。だから先生は驚いた顔をした。
「わ、わかる。君が冬休みまで学校に来たくないのは。でも、これはしょうがないんだ。高校生活もあとちょっとだよ。ここで辞めてしまっては君の三年間はすべて無駄になってしまうんだ」
無駄になったって別にいい。詩亜は正直そう思っていた。しかし、もうすぐ卒業だというのに、ここで辞めてしまったら親がなんと言うか。
(くそっ、しょうがないか)
詩亜は頭を軽く掻きながら、先生に向かって軽く頷いた。
「分かりました。補習を受ければいいんですね」
「あ、ありがとう!助かるよ、御堂君」
何が助かるんだ、詩亜はそう思っていたけど、それは口に出さなかった。
「おっはよーさんー」
ついさっき一時間目が始まったというのに、詩亜は保健室に来ていた。それは今日はこれで出席された事になったし、授業に出る気にはなれなかったからで、詩亜は午前中の授業が終わるまで保健室で寝ていようと思っていたからだった。
保健室の扉を詩亜が開けると、小さな保健室の端にある机で、白衣を着た人物が書きものをしているのが見えた。その人物は、扉を開ける音と同時に体を詩亜の方に向ける。
「あら、御堂君じゃない。こんな朝早くから珍しい」
詩亜に体を向けた白衣の人物は女性だった。それもかなり若い感じで、艶やかな長い黒髪をシュシュで1本にまとめている。
「センセに呼ばれてさ、しょうがなくだよ」
「あら、ついに呼び出し?あなた学校に来なさすぎだものね」
口の右下に大きなホクロのある保健室の先生は、胸の辺りが大きく開いた服にミニスカートという色気たっぷりの服を着て、詩亜に向かって笑みを浮かべていた。
「うっさい、留美(るみ)。それよか、ちょっとベッド借りるぞ。昼休みになったら教えて」
冬休みに学校に来なければならなくなった事を留美に言う気にはなれず、詩亜は二つ並んだ真っ白なベッドまで直行し、そのまま横になった。パイプのような簡単な作りのベッドは、体の大きな詩亜が勢い良く寝転がってギシっと鈍い音を響かせていた。
「えー、久しぶりに来てくれたのにもう寝ちゃうの?」
留美はいつの間にか詩亜が横になっているベッドの隣に来ていて、香水の匂いを振りまきながらベッドに乗ろうとしていた。それを詩亜が手ではね除ける。
「うるさい。おやすみ」
そして詩亜はすぐに目をつぶってしまった。その様子を見て、留美はふてくされた顔をしながらも、しぶしぶもとの作業に戻っていった。
(誰とでも寝る女め)
詩亜は眠りに付く為に目をつぶりながら、そんな事を考えていた。
(でも、その誘いに乗る俺も最悪か……)
彼女に誘われたのは高校に入ってからすぐの事だった。学校は退屈だったし、別に抵抗する理由もないから詩亜は留美の誘いに普通に乗った。でも関係を持つようになって、彼女が詩亜にこう告げた。
『私はこんなすごい学校を担当しているけど結局は普通の養護教諭よ。でも、私は雲の上に立っているような人が好きなの。だからあなたのような人を誘惑するのは楽しいわ』
そして、こうも言っていた。
『私はこんな所で終わろうとは思っていないの。せっかく大富豪とこうして繋がっているんだから、このチャンスを逃そうとは思わないわ』
それはあまりにも開けっぴろげな言葉だった。だから詩亜は留美の言葉に腹も立たなかった。それに、それが当たり前なのだとも詩亜は思っていた。
(これだけ特別な人間がいれば、その中の誰かと親密になりたいのは当たり前か)
しかし、留美が誘っていたのは詩亜だけではなかったのを、詩亜は知っていた。それもかなり前から。別にそれでも良かった。彼女との関係はただの暇つぶしだったから。詩亜は留美とどうにかなろうなんて考えもつかない。
この学校に入れば、そういう面が恐ろしいほど表に出る。もちろん学生皆が『金持ち』という特別な存在だったけれど、その中でもやはり上下はある。だから下の人間がさらに上の人間に頭を下げながら、あわよくば自分もその位置に行こうと日々狙っているように詩亜には思えて仕方がなかった。
(くそ、胸糞悪いな)
そう思うようになったのは本当に『いつの間にか』だった。別にきっかけがあったわけじゃない。ただ、長い学校生活の中で、詩亜の心の中にはそんな闇が植えつけられていた。
(そういえば、あいつはちょっと違っていたな)
心の中のどす黒いモヤモヤに吐きそうになっていると、ふと詩亜はある女性の事が頭に浮かんでいた。それは詩亜が会った事もないような女性だった。
(兄貴の恋人のフリだけをする女か……。欲がないのかただのバカなのか……)
庶民の女には興味がない。詩亜はずっとそう思って生きてきた。それは留美のような女がゴロゴロいるんだと思っていたからだった。しかし澪は留美とはまったく違った女性だった。
(……何を考えているんだ、俺は。あいつとはもう会うこともないんだ……)
澪は武の嘘の恋人。そんな彼女ともう一度会える確率はゼロに近かった。それなのに詩亜の頭には澪の存在が鮮明に残っている。
(……何を、考えているんだよ)
そして詩亜は澪の事を考えながら、そのまま眠りに落ちていった。
「そ、そんな事があったの?!ちょ、ちょっと!もっと早く教えてよぉ」
案の定、美雪は武との話にすごい勢いで食いついてきた。でももうすべて終わったことで、あの出来事からすでにもう数日たっていた。だから澪は昔話をするように美雪にすべてを話すことにした。
「しっかし、御堂グループの御曹司の嘘の恋人ねぇ。なんか漫画みたいな話だね」
「うんうん。本当にそう思うよ」
いつものように二人はお昼休みに会社の中の小さな会議室で昼食を取っていた。もちろん、周りには誰もいない。
「それもその弟があのシア?うわぁ、なによ、その夢のような一家は」
「ほんとにほんとに。あの場に自分がいたことすら、なんだか今では夢だったんじゃないかと思ってしまうよ」
それでも澪の携帯には今でも武の番号が入っている。だからあの出来事は決して夢ではなかった。
「で、すべてが終わってからは一切連絡はなし?」
「うん。まあ、別に連絡する用事もないだろうしね」
「澪からも連絡はしない、と?」
「私がそういう子に見える?」
「そうですね、見えませんよねー」
「もう、美雪ったら」
澪は自分から積極的に恋人でもない男性に連絡するほどの度胸はなかった。だから自分の心の中に武が引っかかっていても、用事がないのに連絡は一切出来なかった。それでも携帯を見つめて電話をかけようかと思ったことは何度もある。しかし、やはり澪にはそれ以上の行動は出来なかった。
「それにさ、もしよ?もし私が武さんと付き合ったとしても、毎日心配事がありすぎて胃に穴が開いちゃうよね、きっと」
「まあ、あっちは超セレブだもんね。そりゃ私たちには無理だわ」
「うんうん。だからこれで良かったんだよ。あれは夢だったってことでさ」
こんな夢ならもしかしたら見なかったほうが良かったのかもしれない。でも武に会えたから澪は聡史をあんな目に会わせる事が出来た。だから武には本当に感謝している。
「じゃあ、私が澪の為にコンパでも開いてあげますかねー。クリスマス前に新しい彼氏でも見つけちゃう?」
それは美雪なりの澪に対する励ましの言葉だった。
「え?ほんと?それは嬉しいかも」
「よし、じゃあちょっと人数集めてみるよ。決まったら教えるね」
「わーい!美雪先生ありがとう!」
夢のような人たち。夢のような一時。それはまさしくすべて夢。だから澪はそれをはやく忘れなければならないと思い、その為には新しい出会いが必要なんだと思っていた。また恋をすれば今の心を占めている御曹司の事を忘れられると。
「そっか、もうちょっとでクリスマスだっけ」
「うんうん。人が一番恋人を欲しがる時期だよー」
「うわぁ……、私ってなんて時期にあいつと別れたんだろ……」
「ま、まあ、それはいいじゃん。どうせあいつとは別れた方が良かったんだしさ」
「うん、そうだよね」
もう聡史のことも武のことも忘れてしまおう、澪は本当にそう思っていた。しかし、御堂家族との出会いは澪にとってそう簡単に忘れられる出来事ではなかった。それがたとえ、澪自身はもう忘れようと思っていたとしても。
「今日は鶏肉が安かったなぁ。から揚げはすごい久しぶりかも」
澪は短大生の頃から一人暮らしをしていて、はじめは嫌いだった自炊も今では普通にする事に変わっていた。それもこれが彼氏が『澪の料理は美味いな』と言ったからで、澪は彼の為に色々な料理に挑戦したりもしていた。
「それなのに簡単に捨てられる……。なんか私ってバカみたいね」
スーパーの袋をブラブラと揺らしながら、澪はマンションがある方向に夜道を一人歩いていた。駅からマンションまでは歩いて十五分ほど。それを毎日、ちょっと遠いなと思いながら澪は通勤している。
そしてもう目の前にマンションが見えてくる。
(また、ここに帰ってきてしまった)
澪は今時の新築賃貸マンションに住んでいた。部屋の中はもちろん、バスルームやキッチン、その他、すべて最新式の設備が揃っていて、小さな会社のOLが一人で住むには少し場違いなマンションだった。
そして澪はそのままマンションの中に入ろうとした所で、エントランスに誰かが立っている事に気がついた。普段ならそれを少しも気にせずにマンションの中に入るはずだったんだけど、今日はその人物に見覚えがあって澪はその場で立ち止まった。背の高いその人物は、下を向き携帯をいじっている。
「え?あ、あなたは……」
澪はそう呟くと、携帯を見ていたその人物が澪に気がついて顔を上げた。
「おー、やっと帰ってきたよ。お前、こんな暗い中帰ってくんのな。女の一人歩き、気をつけたほうがいいぜ」
「そ、それはどうもご親切に……、って、なんで詩亜君がここにいるの?」
澪のマンションの前に立っていたのは、学生服姿の詩亜だった。
「それは後で話すよ。とりあえず中に入れてくれ。寒くて凍えそうだ」
「え?中に?ど、どうして?」
詩亜がここにいること自体おかしいのに、そんな彼が家に入れてくれという。それを素直に受けていいか澪には分からなかった。
「それに俺さ、腹減っているんだよね。何か食わせてよ」
「何かって、私、まったく意味が分からないんだけど」
詩亜に最後に会ったのは、あのホテルの化粧室の前。それもあまりいい終わり方ではなかった。だから澪は素直に詩亜を見ていいものか少し悩む。そんな澪の姿を見て、詩亜が顔を覗き込んできた。
「いいじゃん、別にお前に手を出したりしないからさ」
「へ?あ、当たり前よ!」
覗きこんできた詩亜の顔があまりに綺麗で、そして香水なのか、彼からは甘いいい香りが漂ってきていた。しかし、その口から出た非常識な言葉に、澪は少し頭に血が昇り始めていた。
(この人は一体なんなの?また私をバカにしに来たの?)
しかし、そんな時に、澪の鞄に入っている携帯が鳴り出した。今は詩亜と話していてここで出ようとは思わなかったけど、とりあえずは誰かの電話かを見るために携帯を取り出した。そして携帯に表示されている名前を見て澪は胸はすぐに高鳴りだした。
携帯の液晶画面には『御堂武』の名前が表示されていた。だから澪は驚いてすぐに電話に出る。
「た、武さん?」
『良かった。出てくださいましたね』
携帯から聞こえてくる優しくて甘い声。その声を聞くだけで澪はその場にとろけてしまいそうだった。
「どうしたんですか?一体?」
マンションのエントランスで、それも目の前に詩亜がいるというのに澪の頭は武でいっぱいになった。声を聞くだけで幸せを感じる。
『澪さん。澪さんのマンションに詩亜が行ってますか?』
「え?あ、はい。来ています」
『やっぱり……。さっき母親から連絡があって、詩亜が澪さんのマンションにしばらくお世話になるって言われたって言っていたんです』
「へ?」
詩亜が自分の所にお世話になる?それはなんの冗談かと澪は詩亜に顔を向けた。すると詩亜は澪を見ながら笑っている。だから澪は携帯を少し離して小声で詩亜に話しかける。
「詩亜君、私のマンションにお世話になるって……どういうこと?」
「どういうことって、そういうことだよ。ちょっとそれ、貸してみ」
「え?あっ!」
詩亜はまだ武と話途中だった澪から携帯を取り上げて、武と話し始めた。
「お袋、話すのはえーなー。兄貴、今アメリカじゃなかったっけ?」
「ちょ、ちょっと詩亜君。携帯返してよ」
理由はどうあれ、再び武の声が聞けた事に澪は少し舞い上がっていた。しかし、背の高い詩亜が高い位置で携帯を使っていて、彼女は自力で返してもらう事は出来ない。
「そんなに怒るなよ。兄貴だろ、母さんに澪のマンションが学校から近いって言ったのは。大丈夫だよ、こんな女に手を出すほど俺は女に不自由してないからさ」
夜のマンションのエントランスはとても静かで、携帯を奪われた澪にでさえ、携帯向こうの武の声が少し聞こえるような気がしていた。それだけ武は詩亜に対して怒っているのだろう。しかし、詩亜はとても平然としている。
「あー、うるさいうるさい。理由はお袋がいったとおりで、俺がもう決めた事だから。じゃ、澪に携帯戻すぞ」
そして詩亜は澪に携帯を差し出した。それを澪は急いで受け取る。
「た、武さん?」
『澪さん、本当に申し訳ない。詩亜のわがままが……。しかし、僕は日本にいなくて今すぐにそちらにいけないんです』
武がここに来てくれようとしていた?それを聞いただけで澪は嬉しかった。
「そ、そんなそんな、武さんはお仕事お忙しいのに。でも、どうして詩亜君がうちなんかに来る事になったんでしょう?」
『それは澪さんのマンションから詩亜の高校がすぐ近いかららしいんです。彼は外で仕事もしているから、出席日数が足りてなくて冬休みも登校するとかなんとかで』
あー、なるほど。澪はそう思っていた。そして気がつくと、目の前の詩亜が手を合わせて澪に拝むような体勢をして、小声で何かを呟いていた。
「お願いだ。俺も高校くらいは卒業したいんだ。でも一人暮らしは許してもらえなくてさ。冬休みが終わるまでの間だけでいいから。な?」
美しい男子に頼みごとをされる。それは澪でも決して嫌な気はしなかった。それもいつも気が強い感じの詩亜が少し下手に出て、犬のような表情をしていて、不覚にも少し可愛いと澪は思っていた。
それに……。澪はここで詩亜の頼みを聞くと、ある特典がついてくることに気がついていた。
(どうしよう。でも詩亜君のおかげでまた武さんと話をすることが出来た……。それに詩亜君の要望を受け入れればまた会えるかもしれない)
もう話す事もない、会うこともないと思っていた王子様。しかし、こうしてまた繋がる事が出来た。出きればこのままもう少し繋がっていたい、それが澪の希望だった。だから澪は少し考えてから結論を出す。
「……うーん、しょうがないわね。でも冬休みの間だけだからね。それでいい?」
「よっしゃ!オッケー!」
そして澪は再び携帯の向こうの武に話しかける。
「聞こえてました?」
『ええ、しっかりと。本当にいいのですか?』
「まあ、冬休みまでっていったら半月くらいですし、うちには余っている部屋もありますしね。これくらいなら全然いいですよ」
これがワンルームのマンションとかだったら絶対に澪は断るだろう。しかし、澪の部屋は一人暮らしなのに2LDKととても広かった。だから人が一人増えても生活には問題は出ない。
『そうですが……。なんだか澪さんには色々と迷惑を掛けてしまいますね。もし弟が澪さんに少しでも迷惑をかけたら、すぐに追い出してもらって結構ですからね』
「はい、分かりました」
『それでは、仕事が片付いたらまたすぐに連絡しますので、弟を宜しくお願いします』
「はい、任せてください。それでは」
そして澪は携帯の通話ボタンを再び押した。武との会話を終えて、澪は体全身が喜んでいるのを感じる。そんな澪を見ながら詩亜はニヤニヤと笑っていた。
「お前、また兄貴と話せて嬉しいんだろ」
「え?そ、そんな事は……」
でも澪の顔がニヤけているのは本人でも分かっていた。しかし、澪は前に詩亜に言われた事を思い出し、すぐに顔を元に戻そうとする。その様子を見て詩亜は頭をかいた。
「あー、いいよ、いいよ、別にそのまんまでも。なんかお前は他の女と違うのは分かったしな」
「え?」
「お前ってなんか俺の周りにいる女とは全然違うんだよな。だから俺はお前に興味が沸いたよ。一緒に住んでじっくり観察させてもらうとするからな」
それは詩亜の今までにない穏やかな言葉だった。
「へ?きょ、興味って何よそれ。それがここにいる理由なの?学校が近いっていうのは嘘?」
「あぁ、それはほんとだよ。出席日数がやばいっていうのもな。その話を母親にした時、お前のマンションの話が出て今回の事を思いついたんだ」
「そ、そう……」
いきなり詩亜が変な事を言うので、澪は心臓が少し早く鼓動しているのを感じていた。
(な、なんなのよ、この状況は。もう意味が分からない)
思えば武に出会った事も、これから詩亜と一緒に暮らす事も、考えて見れば恐ろしいほどの奇跡だった。それも自分から出会いにいったわけじゃない彼らとの出会い。人生ってなんて不思議なんだろうと澪は思っていた。
「まあ、これで俺も学校行くの楽になるし、お前も再び兄貴と繋がる事が出来て、お互いラッキーというわけだな」
「し、詩亜君……」
「いいじゃん。兄貴と利用しあったんなら、俺ともしようぜ。な、澪」
澪は詩亜の言葉に何も返す言葉が見つからなかった。それは澪がそれはそうかもしれない、と思っているからで、もう会うこともなかった遠い星の王子様のような武と再び会えるかもしれないと感じていたからだった。その為なら、彼の弟を家に泊める事くらいお安い御用だった。でももちろん今でも下心はない、かもしれない。いや、あるかもしれない。
「じゃ、これから少しの間、よろしくな」
詩亜は澪に手を差し出してきたので、澪もその手を取った。
「うん、よろしくね。居候さん」
そして澪は、エントランスからマンションの中に入ろうと、鞄から鍵をゴソゴソと探し始めた。すると詩亜が何かを思いついたように澪の肩をポンと叩いた。だから澪は詩亜のほうに顔を向ける。
「ん?どうしたの?」
「澪、俺はお前に興味があるっていったけど、お前のような庶民女は趣味じゃないから、その点は安心していいからな」
「へ?」
「それか、俺に手を出されたい?」
「な、何をいっているのよ!」
たとえ年下といっても、大人びた詩亜のにっこりと笑った顔。それは武とはまた違った魅力を持っていた。少し鋭い瞳と均等な顔の作りを持つ彼は、澪でさえ気を抜くとその魅力に取り付かれてしまうかもしれないと思えるくらいだった。しかし四歳も年上という事が澪を大人にしていた。だから詩亜にそんなことを言われても、少しの動揺くらいで済んでいたのかもしれない。
「あはは、嘘だよ、嘘」
「もう!」
でも詩亜は武とは違って、こうやって楽しく笑い合える仲なことは確かだった。たとえ相手が御堂グループの人間で有名なモデルだとしても、澪ははじめから彼にはそうして接していたからそれが良かったのかもしれない。だから詩亜との生活は楽しいのかも、と澪は少しワクワクするのを感じていた。
<< 前へ
戻る
次へ >>