誰がための小夜曲
第1部 始まりは別れの時から
【1】
仕事が終わってから、澪は武から貰った名刺を持ちあるビルの前で立っていた。そして背中に冷や汗を感じる。
「こ、ここって……」
澪は自分が勤めている会社の事以外はあまり詳しくはない。自分は小さな会社のOLをしているけれど、それはただ給料の為に働いているだけ。だからコンパなんかで○○会社で働いていると言われても、いまいちピンっときていなかった。それでも自分の目の前の会社の事は知っている。
「御堂って、あの世界の御堂グループのことなの?」
澪は武に言われた通りにするべきか昨日一日ずっと悩んでいた。あの状況では騙されてもおかしくはないし、武はただの詐欺師なのかもしれない。友達に相談しようとしたけれど、絶対に怪しいといわれるのがオチだから、澪はこの事を誰にも言わなかった。
それでも武の『君の元の彼氏を見返してあげましょうか?』という言葉は、澪にとってとても魅力的だった。それに、武に言われた場所に行ってみて怪しかったら帰ればいいと思っていた。それなのに、いざその場所に言ってみると、怪しいどころか、超一流企業が建っているではないか。澪の頭は混乱していた。
「名刺には最高執行責任者とかあるんだけど。それに名字が御堂……。これってどういうこと?」
御堂グループは世界的に有名なAV機器メーカーで、最近ではレジャーやホテル事業にも手を出し始めているという大企業だった。そんな大企業の名前と同じ名字を持つ武は、その名刺に最高執行責任者とあって、澪の手は震える。
「嘘よ。絶対これはあの人のジョークだわ。こんなこと絶対にありえない」
超がつくくらいの大企業のトップにいるような人間が、あんな変な事を言うはずがないと思った澪は、そのまま引き返そうとした。でもすぐに足が止まる。
(でも待って。もし冗談じゃなかったら?本当に彼が世界の御堂の人間なら、あいつを見返すことは十分に出来るわ)
先週の失恋の痛手はまだ澪の心に深い闇を作っていたけれど、この不思議な出会いにワクワクしていた事は間違いではなかった。
(とりあえず受け付けで聞くくらいならいいよね。それで間違っていたら綺麗さっぱり忘れればいいことだし)
バーでの彼に携帯番号やメルアドを教えたわけではない。だからこれが嘘の名刺だったとしても、それを破り捨てればもう彼との接点はなくなる。だから澪はためしに名刺を受付に持っていくことにした。
澪は小さな会社のただのOL。だからこんな大きなビルの中に入ったことなんてこれまで一度もなかった。ビルから出る人や入っていく人すべてが澪の目には特別に見えてしまう。
(すごい。私って確実に浮いているよね)
私服じゃなくてスーツを着てきて良かったと思いながら澪はゆっくりと御堂株式会社のビルの中に入り、周りに数人いる警備員にビクビクしながら受付に向かっていった。さすが世界に誇る大企業、ビルの中に入ると、シンプルだけどオシャレで洗練された空間が広がっている。
「あの……、ちょっといいですか?」
澪は受付に座る女性に声を掛けた。
受付にはモデルなんじゃないかと思うくらいの綺麗な女性が二人座っていて、緊張が最高潮を迎えている澪をさらにドキドキさせていた。その内の一人に澪は声を掛けると、驚くほどの営業スマイルで受付嬢が澪に微笑んだ。
「はい。どういたしましたか?」
そして澪は受付嬢に武の名刺を渡す。
「この方にお会いしたいのですが……」
「はい。え?えっと、あ、お約束ですか?」
受付嬢の明らかな動揺が澪には分かった。それでも『こんな人はいません』と言われなくて良かったと澪は胸を撫で下ろす。
「や、約束……?だ、だと思います。……たぶん」
澪は武と約束をしたわけじゃない。ただ名刺を受付で見せろといわれただけだった。
「え、っと。少々おまちください」
澪は受付嬢に二、三度怪しい目で見られたけれど、彼女は名刺を見ながらどこかへ電話を掛けていた。そして何かを色々話してから電話の受話器を置き、澪を不審な目で見ながら名刺を差し出した。
「では、三十七階にお願いします」
受付嬢が何故そんな嫌な顔をするのか澪には分からなかったけれど、澪は名刺を受け取りながら軽くお辞儀をする。
「は、はい。ありがとうございます」
澪は話がきちんと通った事がとても嬉しかった。しかし、それと同時に、何だか自分の周りにすごい事が起きているのではないかという気になり始めていた。
そして澪は受付嬢に言われた通りに、見たこともないくらい大きなフロアを歩いていき、やはり警備員を横目にエレベーターに乗り込んだ。そして一緒に乗った沢山の御堂社員に押しつぶされそうになりながら、エレベーターの三十七階のボタンを押した。
視線は感じる。それはそうだろう。澪はこの会社の社員じゃないし、きっと周りからすればなんでこんな地味で田舎っぽい女がこんな所にいるんだろうと思われているに違いない。そんな視線に澪は少し苦しさを感じていたけど、とにかく澪は上へ上へ向かうエレベーターの各階の数字だけを見ることにしていた。
そして一人、また一人とエレベーターの中の人が少なくなっていく。そして三十五階になった時、エレベーターの中には澪一人だけになっていた。
「なんなのよ、この会社は。息が詰まりそうだわ」
短大を出て就職活動をした時、もちろん大きな会社に行きたいという憧れはあった。首から社員証を下げてハイヒールをカツカツと鳴らしながら歩きたいと。しかし、その中がこんなに息苦しいものだと感じた澪は、今の小さな会社でゆっくりと仕事をしているので自分には合っているな、と思っていた。
そして三十七階に着きエレベーターが開いた時、エレベーターの前に一人の男性が立っていた。そして澪に近づいてくる。
「いらっしゃい。本当に来るとは思っていなかったけれど、歓迎しますよ」
そこに立っていた男性。バーで会った時は酔いすぎていて顔があまり分からなかったのに、そのあまりにも輝かしい容姿に、澪はその場で倒れてしまいそうになっていた。
一面ガラス張りのフロア。その一角に武のオフィスがあった。もう外は暗いというのに、フロアには何人もの社員が働いている。そんな彼らが澪の登場に横目でチラチラと見てくるのを感じていた。
「まずは君の名前を聞きたいな。僕の名前はその名刺で分かりますよね?」
「あ、は、はい。わ、私は青島澪です」
まるで面接のように武と向き合うように澪は座っていた。そしてもちろん緊張をしている。こんな会話を他の社員に聞かれたらどう思われるか分かったものじゃないと思ったけれど、武のオフィスはガラスで隔離されている為、その心配はないようだった。だから澪は武に普通の声の音量で答える。
「澪さんですね。そんなに緊張しないで下さい。この間のように楽しそうに話して下さって結構ですよ」
武はそう言いながら澪に優しい笑顔を向ける。逆三角形の輪郭と、スッと通った高い鼻、上がってもなく下がってもない形のいい瞳を持っている武は、縁のない細めの眼鏡と染めたことがなさそうな真っ黒な短髪が彼の真面目さを現していた。そんな武の姿を見て、受付嬢がなぜあんな嫌な顔を自分に向けたのか、澪は今になって痛感していた。こんな男前な上司がいたら、きっと誰でも憧れてしまうだろう。そんな彼に見知らぬ怪しい女が尋ねてくるのは、きっとかなり怪しかったに違いない。
「え?え、えっと、む、無理ですよ」
超大企業の重役で驚くほどの男前の人間とこうして一対一で話していること自体奇跡だというのに、そんな彼に自分は失態を見せてしまったのだと、澪は今になって恥かしくなってきた。しかし、もう起きてしまった過去は消す事が出来ない。でも体が熱くなるのは感じていた。
「ま、いいでしょう。では話を始めましょうか。澪さんは僕があの日に言った事を覚えていますか?」
「は、はい。私の元彼を見返すとかそういう話ですよね」
武は澪の答えに優しく微笑んだ。武の眼鏡の奥の瞳が細くなると驚くほど優しい顔になり、その笑顔に澪がノックアウトされそうになっていたのは言うまでもなかった。
「はい、その通りです。僕はあなたの元の彼氏がどんな人かは知りません。でもあなたの話からすると、たいした男でないことは確かだと思います」
それはとても的確だった。きっと武のような完璧な男に比べたら、世の男性はすべてがたいした男ではないだろう。まるで嫌味のような彼の言葉だったけれど、彼は少しも冗談を言っているようではないので、澪は軽く頷いていた。
「そこでこういうのはどうでしょう?未練があると思わせておいて、澪さんは僕というあたらしい相手をもう見つけてしまった、というのを元の彼氏に見せ付けるのです。自分で言うのもなんですが、きっと彼は僕を見れば何かを思うはずです」
なんだこの人は。澪は武の案を聞いてそう思っていた。それはまるで自分と付き合う女性は他の人誰もが羨んでしまうんだよ、と言っているようなものだった。
(でもそれは決して嘘ではない。世界の御堂の御曹司と付き合うなんて、特別以上の特別だわ。きっとあいつも悔しがるはず)
確証はなかった。それに澪の元彼にはもう新しい彼女もいる。それでも澪は彼にたくさん尽くしてきた。それを幸せとも言ってくれていた。だからこんなに早く新しい彼氏が出来た事を少しは何か思ってくれるのではないかと澪は思っていた。それも驚くほどの相手を。
「どうですか?澪さん」
「はい。それでお願いしたいです。でも、本当にそんなこと演じて下さるのですか?私なんかの為に……」
そう、私なんかの為に。澪は不思議だった。なぜ見ず知らずの平凡な女に、こんな大物が手を貸してくれるのか。そこで思い出した。彼が言っていた事を。
「そうだ、御堂さんも言っていましたよね。代わりに私にも働いてほしいと。それは一体どういう事なのですか?」
「武、でいいですよ。澪さん」
「え?あ、は、はい。じゃ、じゃあ、武さん」
澪は彼の名前を呼びながら心の中で、なんで私はこんなすごい人の名前を呼んでいるんだろうと思っていた。
「結構です。では僕があなたにして頂きたい事をお話しますね。それはとても簡単です。僕があなたにすることと同じ事なんですから」
「え?同じ事」
「はい、そうです」
「同じ事って、それって……」
武は澪の嘘の彼氏として元彼の前に現れてくれると約束してくれた。それと同じ事といったら。
「私があなたと付き合っている事にしてほしいということですか?」
「そうです。その通りですよ」
「だ、誰の前で?」
「僕の両親の前でです」
「え?え?!」
それは澪の時間がしばらく止まってしまうくらい驚くべき事だった。
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