誰がための小夜曲
第1部 始まりは別れの時から
【0】
「なぁーにが、お前といても少しも面白くないんだよね、だよ。私があいつの為にどんなに頑張ったと思っているのよ」
青島澪(あおしまみお)は暦はもう師走に入って皆忙しい頃だというのに、今までこんなに飲んだ事ないというくらいお酒を飲んで、薄暗いバーで一人泥酔をしていた。それは気分が最悪な時にたまたま前を通った隠れ家的バーでの事だった。
「それでなに?今度は私の友達の友達と付き合う?どれだけ私をバカにすれば気が済むのよ」
澪はついさっき彼氏にフラれた。コンパで知り合ったホストっぽいちょっとバカそうな彼氏だったけれど、顔は中の上くらいで、十分友達に自慢が出来る彼氏だった。それに、澪は彼とは一年以上付き合っていた。だから澪は彼の為だったら何でもしていたのに、彼はそんな澪に『お前はつまらない』といって去っていってしまったのだった。
「どうせ、どうせ、私はつまらない女ですよ。地味だし可愛くないし、どこにでもいるOLですよ。そうでしょ、お兄さん?」
澪は酒のせいで前が見えているのか見えてないのか微妙な所で、普段なら絶対にしないような事も恥かしげもなく出来てしまった。だから、たまたまカウンターの隣に座っていた男性に躊躇なく話しかける。
「僕ですか?」
澪がこの店に来店してからカウンター席にはスーツを着たサラリーマン風な一人の男性が座っていた。一人で座るのを寂しく感じたのか、澪は十分空いている席には座らず、人が座っている席の隣に座っていた。
「そうよ、お兄さん。どうしたの?今日は一人?」
「そうです。いつも一人ですよ」
低くて優しそうな声が澪の耳に届く。しかし、それがどんな人が発している声なのか、空ろな目をしている澪には分からなかった。
「そうなの?それは寂しいわねー。じゃあ、私が一緒に飲んであげる」
酔いというのは本当に怖い。普段の澪なら見ず知らずの男性に話しかけるなんてことは絶対にしないのに、今日は彼氏にフラれて今までにないくらい澪は酔っていた。
「それはありがとうございます。あなたこそどうしたんですか?女性がこんな所に一人でいるなんてあまりないことですよ」
店はクラシック音楽がBGMとして流れている洒落たバーで、暗い照明が周りにいるであろうお客の顔を隠していた。だから澪は周りにどれくらいの人数の人がいるのかは入った時から分かっていない。
「うむ、よくぞ聞いてくれた。私はついさっき彼氏にフラれたのですよー。最悪なんですよー」
「彼氏にフラれた?それはまた。ご愁傷様ですね」
リズムが変わらない淡々とした話し方。しかしそんなこと、泥酔の澪には関係なかった。
「そうなの、そうなの。本当にご愁傷様よ。私はね、彼の為にいっぱいお金も使って、体も張って、何でもしてきたの。それなのに、捨てられる時は一瞬。あーあ、なんかバカみたいだよね」
「そうですね。それは少し哀れな気がします」
少しも慰めない言葉。しかし、澪は慰めの言葉なんて欲しくはなかった。慰められた所で、彼氏は戻ってこない。ただ澪はこの悲しみを流してしまいたかった。
「くー!なんか他人にそう言われるとますます悲しくなってきた。ねぇ、ちょっと泣いてもいい?」
知らない人の前で泣くなんて、お酒が入っていないと出来ないことだろう。しかし、そんな迷惑な事を言われても、澪の隣の男性は少しも嫌な顔をせずに答えた。
「どうぞ。でもあまり大きな声は出さないで下さいね。他の方に迷惑ですので」
「ありがとぉ……ふえん」
そして澪は古いけど良く磨かれたカウンターに頭をつけてボロボロと泣き始めた。
「私がもっと可愛かったら。もっと素敵だったら、あいつを見返せるのに。でも分かってる。私は私だもの。他の人には決してなれないのよ」
平凡であること、それを悩んだ事は別にない。ただ、クラスでも社会でも必ず一人は特別な人はいる。そんな特別な人を見ながら、羨ましいとだけは思ってきた。なんで自分はそうやって生まれてこなかったのだろう。もし自分が美人だったり可愛かったりしたら、こんな辛い思いはしないだろうにと。
それからしばらく澪は泣いていた。どれくらいの時間泣いていたのかは分からないけれど、隣の男性はカクテルを口にしながら、澪の言葉に静かに耳を傾けていた。そして澪の涙が少しずつ枯れはじめた頃、静かな声で話し始めた。
「じゃあ、僕が君の元の彼氏を見返してあげましょうか?」
「え?」
まだ澪の頭は酔いと涙でグルグルしていたけれど、それでも彼の言葉を敏感に聞き取った。
「その代わり、君にも僕の為に少し働いてもらいたいのですが、この取引はどうでしょうか?」
「え?え?な、何をいっているの?」
それはきっと澪が酔っていなくても同じ返事をしたに違いない。それだけ彼の言っている事が澪には理解出来なかった。
「気が向いたらここに来てください。これを見せれば僕のところまで来れると思いますので」
男性はスーツの内ポケットから何かを取り出し澪の前に置いた。それは小さな紙切れだった。
「では僕はそろそろ時間なので失礼します。あなたも気をつけて帰って下さい」
そして男性はカウンターに数枚の札を置いて、その場を立って外に出て行ってしまった。澪はそれをあっけに取られて見ているしか出来なかった。
「これ、名刺?」
澪は空ろな目で男性に貰った紙切れをジッと見ていた。
「御堂武(みどうたける)……?」
そして澪は武から貰った名刺を片手にカウンターに倒れこんで眠りに落ちていってしまった。次に気がつくのはバーが閉店する時間だった。
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